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モナコ大公たいこう宮殿きゅうでん

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モナコ大公たいこう宮殿きゅうでん(モナコたいこうきゅうでん)とは、きゅう市街しがいにあるモナコ大公たいこう公邸こうていである。元々もともとジェノヴァ共和きょうわこく要塞ようさいだった[1]。そのなが歴史れきしなかで、おおくの外国がいこく勢力せいりょくによる砲撃ほうげき包囲ほういけてきた。1297ねんにグリマルディ所有しょゆうとなり、18世紀せいきにルネサンス様式ようしき宮殿きゅうでんとなった[2]

モナコ大公たいこう宮殿きゅうでん
宮殿きゅうでん全体ぜんたい

19世紀せいき

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オノレ3せいのち息子むすこオノレ4せい(1758ねん - 1819ねん)がいだ。オノレ4せいはルイーズ・ドーモン・マザランと結婚けっこんし、グリマルディの財産ざいさん回復かいふくするのに多大ただい貢献こうけんをした。この財産ざいさんおおくは、革命かくめい苦難くなんによって枯渇こかつしていた。1814ねん6がつ17にちのパリ条約じょうやくにより、モナコ公国こうこくはオノレ4せい返還へんかんされた。

グリマルディがモナコから追放ついほうされていたあいだ宮殿きゅうでん建物たてもの完全かんぜん放置ほうちされていた。そのため、あずまつばさ一部いちぶはオノレ2せい水浴すいよくじょうとともにこわされ、現在げんざい、2014ねん閉館へいかんしたナポレオン博物館はくぶつかん宮殿きゅうでん文書ぶんしょかんがある場所ばしょっていた。

復元ふくげん

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宮殿きゅうでんないのチャペル

オノレ4せい王位おうい回復かいふくした直後ちょくごくなり、宮殿きゅうでん構造こうぞう修復しゅうふくオノレ5せい時代じだいはじまり、1841ねんかれ死後しごおとうとのフロレスタン公爵こうしゃくによって継続けいぞくされた。しかし、フロレスタンが即位そくいするころには、モナコはふたた財政ざいせい問題もんだいによる政治せいじてき緊張きんちょう見舞みまわれるようになる。これは、モナコがナポレオン戦争せんそう終結しゅうけつフランスから割譲かつじょうされたサルデーニャ保護ほごりょうであったことに起因きいんする。俳優はいゆうとして活躍かつやくしていたわりもののフロレスタンは、モナコの経営けいえいつまのマリア・カロリーヌ・ジベール・ド・ラメッツにゆだねた。フロレスタンは、モナコの経営けいえいつまのマリア・カロリーヌ・ジベール・ド・ラメッツにゆだねたが、おっと国民こくみんふたた反乱はんらんこした。フロレスタンは、この不安定ふあんてい状況じょうきょう緩和かんわするために息子むすこのシャルルに政権せいけんゆずったが、モネガスクの人々ひとびとをなだめるにはあまりにもおそすぎた。メントンとロックブルーヌはモナコから離脱りだつし、グリマルディはモンテカルロ以下いかちいさなくにとなってしまったのである。

フロレスタンは1856ねんくなり、息子むすこのシャルルがモナコののこりの部分ぶぶん支配しはいしていたが、シャルル3せいとしてかれのちいだ。マントンとロクブリュヌは1861ねん正式せいしきにフランスの一部いちぶとなり、モナコのサイズは一気いっきに80%縮小しゅくしょうした。シャルル3せい時間じかん余裕よゆうって、叔父おじのオノレ5せいはじめた宮殿きゅうでん修復しゅうふく完了かんりょうすることに時間じかんついやした。かれせいマリアのとう再建さいけんし、礼拝れいはいどう完全かんぜん修復しゅうふくし、あたらしい祭壇さいだん追加ついかし、アーチがた天井てんじょうけた。天井てんじょうはフレスコえがかれ、ファサードのそとはジェイコブ・フロッシュレとデシュラーによってえがかれ、グリマルディがおこなったさまざまな英雄えいゆうてき行為こういえがいた壁画へきがえがかれた。要塞ようさいきゅう大広間おおひろま (現在げんざい国会こっかい議事堂ぎじどうとしてられている) である守衛しゅえいしつは、あたらしいルネサンス様式ようしき装飾そうしょく記念きねんてき煙突えんとつ追加ついかによって変貌へんぼうげた。

シャルル3せいは、革命かくめい略奪りゃくだつ売却ばいきゃく散逸さんいつした様々さまざま美術びじゅつひん家具かぐさがすことにも真剣しんけんんだ。ド・プレディスのリュシアン1せい、フィリップ・ド・シャンパーニュのオノレ2せい、ヒヤシンス・リゴーのアントワーヌ1せい頭部とうぶ、ヴァン・ローのルイーズ=ヒポレットの肖像しょうぞうなど、家族かぞく肖像しょうぞうだけでなくティツィアーノの「音楽おんがく授業じゅぎょう」などの傑作けっさくが、あたらしい購入こうにゅうひんともふたた宮殿きゅうでんかざったのである。

シャルル3せいはまた、モンテカルロのべつ宮殿きゅうでん責任せきにんしゃでもあった。この宮殿きゅうでんは、かれ修復しゅうふく資金しきん提供ていきょうし、かれくに低迷ていめいする経済けいざい好転こうてんさせるものだった。このあたらしい宮殿きゅうでんは、1878ねん完成かんせいしたシャルル ガルニエのセカンドエンパイアカジノでした。最初さいしょのモナコのカジノは、そのまえの10年間ねんかんにオープンした。カジノをつうじてモナコは自立じりつした。

グリマルディ勢力せいりょく衰退すいたい

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1889ねんにシャルル3せいくなるまでに、モナコとモンテカルロは1つのおな場所ばしょ代名詞だいめいしとなり、ギャンブルをつうじて、金持かねもちのルーシュで退廃たいはいてきあそとしての評判ひょうばんていた。それは、ロシアの大公たいこう鉄道てつどうおうから冒険ぼうけんまで、おおくの場合ばあい愛人あいじんきつけ、ヴィクトリア女王じょおうふくおおくの人々ひとびとにこのちいさなくに嘲笑ちょうしょうさせた。実際じっさい、モナコは非常ひじょう退廃たいはいてきであるとかんがえられていたため、1882ねん彼女かのじょはじめてフレンチリビエラをおとずれたとき、ビクトリア女王じょおう宮殿きゅうでんでの礼儀れいぎただしい社会しゃかいてき訪問ほうもん拒否きょひした。現代げんだい作家さっかのサビーヌ・ベアリング・グールドは、モナコの習慣しゅうかんを「ヨーロッパの道徳どうとくてき汚水おすいめ」と表現ひょうげんした。

モナコの歴代れきだい支配しはいしゃ場所ばしょ傾向けいこうがあり、たまにしか宮殿きゅうでんおとずれなかった。チャールズ3せいは1889ねんアルバート1せいがれた。夫婦ふうふには、1880ねん結婚けっこん無効むこうになるまえに、1人ひとり息子むすこルイがいた。アルバートは熱心ねっしん科学かがくしゃで、1906ねん海洋かいようがく研究所けんきゅうじょ設立せつりつした。その平和へいわ主義しゅぎしゃとしてモナコに国際こくさい平和へいわ研究所けんきゅうじょ設立せつりつした。アルバートの2番目ばんめつま、フランス公爵こうしゃく未亡人みぼうじんであったアメリカじん銀行ぎんこう相続そうぞくじんであるアリス ハイネは、モンテカルロを文化ぶんか中心ちゅうしんえ、まちにバレエとオペラの両方りょうほう確立かくりつするためにおおくのことをおこなった。家族かぞく多額たがく持参じさんきんをもたらした彼女かのじょは、カジノをあたたかい気候きこうでの回復かいふくから恩恵おんけいけるまずしい人々ひとびとのための回復かいふくいええることをかんがえた。しかし、アリスが計画けいかく実行じっこううつまえに、夫婦ふうふわかれた。

1911ねんルイ王子おうじむすめ王位おうい継承けいしょうできるようにする法律ほうりつ可決かけつした。この法律ほうりつ異議いぎとなえられ、モナコ継承けいしょう危機ききとしてられるようになったものに発展はってんした。最後さいごに、1919ねん公爵こうしゃく正式せいしきかれ嫡出ちゃくしゅつむすめシャーロットを採用さいようし、シャーロット王女おうじょとしてられるようになった。ナポレオン1せいぞくするルイ2せい工芸こうげいひんのコレクションは、一般いっぱん公開こうかいされている宮殿きゅうでんのナポレオン博物館はくぶつかん基礎きそ形成けいせいしている。

だい世界せかい大戦たいせんなか、ルイはモナコを中立ちゅうりつたもとうとしたが、フランスのヴィシー政府せいふ同情どうじょうしていた。これは、かれまごであるレーニエ、かれむすめ息子むすこ、およびナチスにたいして連合れんごうこくつよ支持しじしたルイの王位おうい継承けいしょうしゃとのあいだ亀裂きれつこした。

連合れんごうぐんによるモナコの解放かいほうつづいて、75さいのルイ王子おうじ公国こうこくのためにほとんどなにもせず、公国こうこく深刻しんこく無視むしおちいはじめた。同年どうねん7がつ27にち、モナコおおやけとなったフランスじん女優じょゆうジレーヌ・ドマンジェと結婚けっこんかれ治世ちせい最後さいごすう年間ねんかんかれかれつまはモナコをはなれ、フランスのかれらの邸宅ていたくんでいた。ルイ王子おうじは1949ねんくなり、まごレーニエ3せいいだ。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ モナコ大公たいこう宮殿きゅうでん”. www.cool-world.net. 2022ねん9がつ16にち閲覧えつらん
  2. ^ 世界せかい観光かんこう地名ちめいがわかる事典じてん,デジタル大辞泉だいじせん. “モナコ大公たいこう宮殿きゅうでんとは”. コトバンク. 2022ねん9がつ16にち閲覧えつらん