(Translated by https://www.hiragana.jp/)
リンディ - Wikipedia コンテンツにスキップ

リンディ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
リンディ

Lindi
リンディのメインストリート
リンディのメインストリート
リンディの位置(タンザニア内)
リンディ
リンディ
南緯なんい959ふん49びょう 東経とうけい3942ふん52びょう / 南緯なんい9.99694 東経とうけい39.71444 / -9.99694; 39.71444
くに タンザニア
しゅう リンディしゅう
人口じんこう
(2012)[1]
 • 合計ごうけい 26,151にん

リンディ(Lindi)は、タンザニア都市とし人口じんこうは2まん6151にん(2012ねん)。 タンザニア南部なんぶ海岸かいがん位置いちし、リンディしゅう州都しゅうとである。リンディわんおく位置いちし、インド洋いんどようめんする。ダルエスサラームからはみなみに450km、ムトワラからはきたに105kmはなれている。

地理ちり

[編集へんしゅう]
リンディのまち

リンディはルクレディがわ河口かこうにあり、沿岸えんがん漁業ぎょぎょうよう設備せつび沿岸えんがん航路こうろよう旅客りょかく設備せつびはあるものの、水深すいしんあさ外洋がいようせん入港にゅうこうすることはできない。[2]リンディ地方ちほうではサイザルあさ栽培さいばいさかんである。リンディのまちきた25kmの地点ちてんにリンディ滑走かっそうがある。雨季うきには頻繁ひんぱん道路どうろ交通こうつう切断せつだんされるため、雨季うき安定あんていてき交通こうつう手段しゅだん空路くうろまたは海路かいろかぎられる。これを改善かいぜんするためにきたのダルエスサラームからつうじる道路どうろ改良かいりょうがおこなわれている。リンディからはふる舗装ほそう道路どうろみなみミキンダニとおってムトワラまでびている。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

スワヒリ都市とし

[編集へんしゅう]

リンディはふる交易こうえき都市としであり、きたモガディシュからモンバサマリンディザンジバルキルワからみなみソファラまで点々てんてんつらなるアラブじん交易こうえき都市としのひとつとして繁栄はんえいし、スワヒリ都市としひとつとなっていた。19世紀せいきはじめにはオマーン王国おうこくサイイド・サイード支配しはいはいり、かれ拠点きょてんいたザンジバルやマスカットなどと交易こうえきおこなっていた。リンディの主要しゅよう交易こうえきひん奴隷どれいであり、リンディからはっした奴隷どれい貿易ぼうえきルートは内陸ないりく奥深おくふかくのマラウイタンガニーカ南部なんぶび、ヤオじん、マクアじんやアラブじんなどのキャラバンによってあつめられた奴隷どれいアメリカをはじめ世界せかい各地かくちへとおくられていった。[3]

植民しょくみん時代じだい

[編集へんしゅう]
1906ねん地図ちずあかせん航路こうろであり、沿岸えんがん航路こうろ拠点きょてんとなっていたことがわかる

19世紀せいき後半こうはんにはドイツ勢力せいりょく浸透しんとうはじめるが、これをきらった首長しゅちょうこしたアブシリの反乱はんらんによって1888ねん一時いちじリンディは制圧せいあつされたものの、やがてドイツぐんさい占領せんりょう[4]1890ねんにはドイツりょうひがしアフリカ一部いちぶとなった。この時代じだいにはタンガニーカ南部なんぶのリンディ地方ちほう首府しゅふとなり、人口じんこうは4000にんかぞえ、郵便ゆうびん電信でんしん整備せいびされ税関ぜいかんかれた。また、ドイツぐん駐屯ちゅうとんかれ、ドイツひがしアフリカ海運かいうん会社かいしゃ定期ていきせん入港にゅうこうしていた。サイザルあさカシューナッツなどの輸出ゆしゅつ産品さんぴん開発かいはつがおこなわれたのもこのころである。1905ねんには内陸ないりくマジ・マジ反乱はんらんき、リンディしゅう内陸ないりく宣教師せんきょうしたちがリンディへとのがれた。だいいち世界せかい大戦たいせんによってドイツがやぶれると、リンディは委任いにん統治とうちりょうタンガニーカの一部いちぶとしてイギリス支配しはいはいった。しかしリンディこう水深すいしんあさ大型おおがた外洋がいようせん入港にゅうこうができないため、1947ねんタンガニーカ落花生らっかせい計画けいかくによって100kmほどみなみにムトワラのみなと開港かいこうすると、タンガニーカ南部なんぶ主要しゅよう貿易ぼうえきこうはムトワラへとうつり、リンディの重要じゅうようせいおおきく低下ていかした。

現況げんきょう

[編集へんしゅう]
リンディのメインストリートにある商店しょうてんけん学生がくせいりょう

リンディのまち企業きぎょうだい部分ぶぶんはアラブじんインドじんにぎっている。まちには小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこう市場いちば、バスターミナル、郵便ゆうびんきょく、いくつかの銀行ぎんこうしゅう2便びん定期ていき便びんのある滑走かっそうなどがある。まち住民じゅうみんだい部分ぶぶんはスワヒリで、ほぼ全員ぜんいんイスラム教徒きょうとであり、周辺しゅうへん農業のうぎょう沿岸えんがん漁業ぎょぎょう従事じゅうじしている。リンディにはだいいち産業さんぎょうのぞいて産業さんぎょうらしきものはほとんどなく、就業しゅうぎょう機会きかいかぎられている。唯一ゆいいつ例外れいがいはこのまちにある製材せいざいしょで、おおくの住民じゅうみん雇用こようしている。海岸かいがんからムタンダのおかけての急坂きゅうざかからはリンディわん見渡みわたせるため、植民しょくみん時代じだいには植民しょくみんしゃたちの住宅じゅうたくがいとなっていた。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ WORLD GAZETTEER”. 17 Apr 2023閲覧えつらん
  2. ^ Lindi port information”. 2006ねん10がつ30にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2006ねん11月24にち閲覧えつらん
  3. ^ 吉田よしだ昌夫まさお世界せかい現代げんだい14 アフリカ現代げんだいII』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1990ねん2がつだい2はん。p.28
  4. ^ 吉田よしだ昌夫まさお世界せかい現代げんだい14 アフリカ現代げんだいII』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1990ねん2がつだい2はん。p.70-71