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ヴィリー・ルドルフ・フェルスター

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ヴィリー・ルドルフ・フォルスターWilly Rudolf Foerster、1905ねん7がつ15にち-1966ねん2がつ19にち)は、日本にっぽん在住ざいじゅうホロコーストからユダヤじん救出きゅうしゅつしたドイツじんエンジニアけん実業じつぎょう

フェルスターは、東京とうきょうにF.&K. Engineering Companyとにちどく機械きかい製作所せいさくしょ設立せつりつ活動かつどう[1]実業じつぎょうとして成功せいこうしたフェルスターは、当時とうじ日本にっぽんもっと裕福ゆうふく外国がいこくじん1人ひとりだったという[2]

戦争せんそう[編集へんしゅう]

ユダヤじん難民なんみん救助きゅうじょ[編集へんしゅう]

東京とうきょうユダヤじん難民なんみん救済きゅうさいかいたすけをり、フェルスターはドイツとその占領せんりょうから多数たすうのユダヤじん難民なんみん雇用こようした。はんナチであったフェルスターは、東京とうきょうユダヤじん難民なんみん救済きゅうさいかいともに、あたらしく雇用こようしたユダヤじんとその家族かぞく日本にっぽんへの入国にゅうこく手配てはいした。ナチとうからだけではなく、東京とうきょう横浜よこはまのドイツ政府せいふ機関きかんからのおおきな圧力あつりょくにもかかわらず、フェルスターはユダヤじん解雇かいこすることを拒否きょひした[2]。フェルスターは、ナチとう政策せいさくからおおやけ自分じぶん自身じしんはなし、自分じぶん自身じしんを「国籍こくせきしゃ」とんだ[2]

東京とうきょうユダヤじん難民なんみん救済きゅうさいかい設立せつりつしたハンス・アレクサンダー・シュトラウス(コロムビア・レコード)とカール・ローゼンバーグ(Liebermann-Waelchli & Co.)が、ドイツとその占領せんりょう迫害はくがいけているユダヤじんから申込もうしこみをり、フェルスターに転送てんそうした。それをけ、フェルスターは応募おうぼしゃのユダヤじん日本にっぽんうつむことができるように手配てはいした。フェルスターの会社かいしゃはたら従業じゅうぎょういん子供こどもたちは学校がっこうかようことができた。このようにして、フェルスターは、ドイツオーストリアチェコスロバキアなどのくにから、かなりのかずのユダヤじん難民なんみん日本にっぽんきたられるように手配てはいした[2]。ローゼンバーグは、1939ねんにドイツの国籍こくせきのユダヤじんエンジニアにてた手紙てがみなかで、フェルスターを「並外なみはずれた独立どくりつしんち、個性こせいあふれ、偏見へんけんのない」人物じんぶつだと説明せつめいした。そのエンジニアは、ユダヤじんであることをしめす「J」のスタンプがされていないパスポートと、フェルスターの会社かいしゃとの雇用こよう契約けいやく提出ていしゅつしたにもかかわらず、日本にっぽん政府せいふはそのエンジニア一家いっか入国にゅうこく拒否きょひした。それをけ、ローゼンバーグの言葉ことばどおり、フェルスターは、エンジニア一家いっかたいする日本にっぽんへの入国にゅうこく許可きょかるために必死ひっし政府せいふ機関きかんはたらきかけ、のケースと同様どうように、許可きょかることに成功せいこうした。きわめてむずかしい状況じょうきょうにもかかわらず、日本にっぽん当局とうきょく説得せっとくできたことをフェルスターが大変たいへんよろこんでいたと、ローゼンバーグは記述きじゅつしている。これ以外いがいにも、いくつかのケースが文書ぶんしょとしてのこされている。1940ねんまつには、フェルスターはウィーンの従業じゅうぎょういん子供こども1人ひとり強制きょうせい収容しゅうようしょおくられるのを阻止そしすることに成功せいこうしている。一家いっか日本にっぽん到着とうちゃくしてからすうヶ月かげつ横浜よこはまのドイツ領事りょうじにより一家いっか市民しみんけん剥奪はくだつされたが、フェルスターは、家族かぞく全員ぜんいん上海しゃんはいゲットー強制きょうせい送還そうかんされる直前ちょくぜんにそれを阻止そしした[1]

ドイツの外交がいこうかんによる犯罪はんざいしゃとしての名誉めいよ毀損きそん[編集へんしゅう]

東京とうきょう横浜よこはまのドイツ外交がいこうかんは、フェルスターのナチにたいする抵抗ていこう活動かつどうけ、フェルスターを犯罪はんざいしゃであると仕立したてげた[2]。フェルスターの前科ぜんか偽造ぎぞうし、ドイツじんコミュニティにひろめた。戦後せんご日本にっぽんぐんはその偽造ぎぞう文書ぶんしょ連合れんごうぐんわたし、フェルスターの信頼しんらいせいげるために利用りようした[2]。ドイツ外交がいこうかんは、フェルスターと同名どうめい人物じんぶつ犯罪はんざいれきもとに、フェルスターの前科ぜんか作成さくせいした。この同名どうめい人物じんぶつは、窃盗せっとう盗品とうひんあつかい、せい犯罪はんざいおかし、ドイツですうかい投獄とうごくされた経歴けいれきがあり、1890ねんにケムニッツ近郊きんこうのライヒェンブランドでまれおり、フェルスターの出生しゅっしょうねんである1905ねんとも、出生しゅっしょうであるフォークトラントのライヒェンバッハともことなる。この人物じんぶつ記録きろくは、1937ねん7がつ23にちから1938ねん6がつ23にちまでドイツのホーエネック刑務所けいむしょ服役ふくえきしていたことを明確めいかくしめしている[3]。そのころ、フェルスターはすでに日本にっぽんなんねんにもわたってんでおり、実業じつぎょうとして成功せいこうおさめていたにもかかわらず[2]のち連合れんごうぐん最高さいこう司令しれいかん偽造ぎぞうされた前科ぜんかをフェルスターの公式こうしき文書ぶんしょとしてあつかった。これにより、もと公務員こうむいんなどの利害りがい関係かんけいしゃ虚偽きょぎ陳述ちんじゅつあいまって、フェルスターの信頼しんらいせいおおいにおとしめられることになった。

逮捕たいほ[編集へんしゅう]

ナチとう政策せいさくはんユダヤ主義しゅぎたいするつよ反対はんたいするフェルスターは、日本人にっぽんじんつますうにん従業じゅうぎょういんとも[2]、1943ねん5がつ24にち憲兵けんぺいたいによって逮捕たいほされた。ドイツ当局とうきょくが、フェルスターをソビエトスパイとして非難ひなんしたことをけたことによる逮捕たいほだった[2]。フェルスターは、憲兵けんぺいたいだけでなく、ヨーゼフ・マイジンガーによっても拷問ごうもんけ、工場こうじょう日本にっぽん企業きぎょう売却ばいきゃくすることを余儀よぎなくされた。フェルスターは1ねん以上いじょう投獄とうごくされ、1944ねん6がつ13にち釈放しゃくほうされた。日本にっぽん裁判所さいばんしょではスパイとしては無罪むざいとなったが[2]反戦はんせんプロパガンダと大衆たいしゅう扇動せんどうのために保護ほご観察かんさつ処分しょぶん[2]、その数日すうじつ自宅じたく軟禁なんきんとなった[2]

1945ねん5がつ17にち、マイジンガーの扇動せんどうにより、フェルスターははんナチとしてふたた逮捕たいほされた。フェルスターは、ドイツからの在日ざいにちユダヤじん同盟どうめいこくからの一般いっぱん市民しみん(カトリックの修道しゅうどうおんななど)とともに、東京とうきょう小石川こいしかわ収容しゅうようされる[2]。フェルスターはスポークスマンとして選出せんしゅつされ、インド市民しみん結婚けっこんしたドイツじん女性じょせいたすけをりて、収容しゅうようしゃたいする食糧しょくりょう配給はいきゅう追加ついかぶん購入こうにゅうした。また、東京とうきょうだい空襲くうしゅうきた1945ねん5がつ25にちから26にちよるに、収容しゅうようしゃたちが収容しゅうようしょ脱出だっしゅつできたのはフェルスターの貢献こうけんおおきかったという。フェルスターは警備けいびいん武装ぶそう解除かいじょし、えさかる建物たてものから収容しゅうようしゃたすけた[2]。1945ねん8がつ15にち収容しゅうようしょはアメリカぐんによって解放かいほうされた[2]

戦後せんご[編集へんしゅう]

連合れんごうぐん最高さいこう司令しれいかん/対敵たいてき諜報ちょうほう部隊ぶたい調査ちょうさ結果けっか[編集へんしゅう]

戦後せんご、フェルスター一家いっか野尻湖のじりこにあるいえうつんでいた[2]連合れんごうぐん広範囲こうはんいにわたる調査ちょうさ実施じっしし、もとドイツ外交がいこうかんなどが尋問じんもんけた。そういったナチの利害りがい関係かんけいしゃがフェルスターの信用しんようきずつけることに成功せいこうしたことをしめれいが、連合れんごうぐん最高さいこう司令しれいかんによるフェルスターのファイルである[2]一方いっぽう対敵たいてき諜報ちょうほう部隊ぶたい(CIC)の内部ないぶ調査ちょうさでは、フェルスターはしんはんナチであり、ユダヤじん難民なんみん雇用こようしていたため、ドイツのナチとう当局とうきょくからペルソナノングラタとなされていたことがあきらかになった。フェルスターは反戦はんせんプロパガンダで告発こくはつされ、はんナチとして2かい逮捕たいほされ、ワルシャワの虐殺ぎゃくさつしゃことヨーゼフ・マイジンガーにより日本にっぽん当局とうきょく通報つうほうされた、と調査ちょうさ判断はんだんしている[2]

没収ぼっしゅうとドイツへの強制きょうせい送還そうかん[編集へんしゅう]

このような調査ちょうさ結果けっかかり、1936ねん以来いらいフェルスターが国籍こくせきしゃであったという事実じじつにもかかわらず[2]日本にっぽんでの財産ざいさん没収ぼっしゅうされ、ナチス容疑ようぎしゃとしてフェルスターはつまむすめともにドイツに強制きょうせい送還そうかんされた[2]。フェルスターをけようとしたユダヤじん友人ゆうじんたちは、たんなる「国籍こくせき外国がいこくじん」であるかれらができることはなく、フェルスターは「くちけるたびにうそをつき」、「政治せいじのために逮捕たいほされたわけではない」とわれたという。また、フェルスターのけん干渉かんしょうすることは、かれらにとって危険きけんせいがあることも言及げんきゅうされた[2]

ドイツの裁判所さいばんしょ調査ちょうさ結果けっか[編集へんしゅう]

フェルスターのドイツ帰国きこく、ドイツの裁判所さいばんしょが、対敵たいてき諜報ちょうほう部隊ぶたいおな結論けつろんたっするまでにやく20ねんようした。多数たすう証人しょうにんたいする質問しつもんのちフランクフルト・アム・マイン高等こうとう地方裁判所ちほうさいばんしょ裁判官さいばんかんは、フェルスターが国家こっか社会しゃかい主義しゅぎたいして反目はんもくしており、抵抗ていこう活動かつどうおこなっていたこと、とくにユダヤじん難民なんみん雇用こようしたことが原因げんいんで、マイジンガーにより迫害はくがいされたと判断はんだんした。裁判所さいばんしょはまた、マイジンガーは、日本にっぽん当局とうきょくすくなくとも長期ちょうきわたってフェルスターを拘留こうりゅうすることをって、スパイとして仕立したてげ、日本にっぽん当局とうきょくをフェルスター迫害はくがい道具どうぐとして使用しようした、という結論けつろんいたった。この決定けっていのわずかすうヶ月かげつ、フェルスターはくなった[2]。フェルスターの名誉めいよおおやけ回復かいふくされたことはいちもない[2]

2018ねん8がつ28にち東京とうきょうの「シンドラー」であるヴィリー・ルドルフ・フェルスターの伝記でんきボンのハウス・デア・ゲシヒテで公開こうかいされた。講演こうえんなかで、著者ちょしゃのクレメンス・ヨケムは、フォルスターによって救出きゅうしゅつされたユダヤじん従業じゅうぎょういん個々ここ伝記でんき写真しゃしん、およびフォルスター事件じけん関連かんれんする重要じゅうようあたらしい文書ぶんしょ提示ていじした[4]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Jochem (2017b).
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w Jochem (2017a).
  3. ^ Gefangenenanstalt Hoheneck”. Sächsisches Staatsarchiv. 2018ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  4. ^ Vortrag: Willy Rudolf Foerster – Aufstieg und Fall des Judenretters von Tokio, オリジナルの30 September 2018時点じてんにおけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20180930115256/http://www.djg-bonn.de/vortraegedetails.html?&tx_ttnews%5Btt_news%5D=97&cHash=95a5aab55c9c3542ed38d7ecfcd0559a 2018ねん10がつ6にち閲覧えつらん ; “Unsere Woche, Veranstaltungen”. Jüdische Allgemeine (34): 13. (23 August 2018). ISSN 1618-9698. ; “Tipps und Termine”. Bonner General-Anzeiger – Bonn: 25. (27 August 2018). 

出典しゅってん[編集へんしゅう]

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • Jochem, Clemens (2017). Der Fall Foerster: Die deutsch-japanische Maschinenfabrik in Tokio und das Jüdische Hilfskomitee. Berlin: Hentrich & Hentrich. ISBN 978-3-95565-225-8 
  • Rotner Sakamoto, Pamela (1998). Japanese Diplomats and Jewish Refugees: A World War II Dilemma. Westport: Praeger. p. 93. ISBN 0-275-96199-0 
  • Petroff, Serge P. (2008). Life Journey: A Family Memoir. Bloomington: iUniverse. ISBN 978-0-595-51115-0  [Memoirs of an employee of Foerster. Petroff provides, except some inaccuracies (e. g. date of Foerster's arrest), an authentic insight into Foerster's anti-Nazi attitude, his persecution by the Gestapo and his arrest and expropriation by Japanese authorities.]

学術がくじゅつ雑誌ざっし[編集へんしゅう]

インタビュー/オーラルヒストリー[編集へんしゅう]

  • マーガレット・A・ベンダハン、ニー・リーベスキンドへのインタビュー彼女かのじょ日本にっぽんへの脱出だっしゅつと、ドイツ当局とうきょく扇動せんどうによる「スパイ」容疑ようぎしゃとしての逮捕たいほ拷問ごうもんについて。 1991ねん8がつ27にち米国べいこくホロコースト記念きねん博物館はくぶつかんコレクション。夫人ふじん。ベンダハンは、ヴィリー・ルドルフ・フォルスターによって救助きゅうじょされたスターン親友しんゆうでした。かれはインタビューでなん言及げんきゅうされています:01:42:00-01:47:00 h(パート1/2)、01:56:00-01:57:30 h(パート1/2)、00:12 :00-00:18:00(パート2/2)。 1963ねん3がつ30にちけのマーガレットベンダハンによる宣誓せんせい供述きょうじゅつしょは、「DerFallFoerster」の94-95ページに引用いんようされている