ヴィルヘルム・ベックマン
ヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Böckmann、1832
経歴
[- エルバーフェルトで
生 まれる。父親 と同 じ名前 で、その父 は数学 の教師 。当地 のギムナジウムに進学 するが、その後 2年間 ほど大工 の修行 。さらに、実業 学校 に進学 しなおし、同 学校 を首席 卒業 する。 - 1854
年 、建築 家 協会 に入会 。ベルリン・バウアカデミーに進学 。また途中 の1年間 兵役 につく。 - 1857
年 、のちのパートナー、ヘルマン・エンデと国外 旅行 を共 にする。1858年 、カール・フリードリヒ・シンケル記念 設計 競技 1等 入選 。1859年 、バウマイスター試験 に合格 する。 - 1860
年 からエンデと協 働 で建築 設計 事務所 を開設 。煉瓦 を買 い込 んで普通 法人 として会社 登録 する。のちに故郷 エルバーフェルトに支店 を開設 。 - 1864
年 と1965年 、訪問 したパリ都市 計画 に関 して建築 家 協会 で講演 - 1868
年 、仲間 とともに建築 雑誌 『ドイツ建築 新聞 』創刊 - 1868
年 、ベルリンの計画 に際 し道路 計画 について批判 、パリについても街 区 景観 について非難 。 - 1869
年 、建築 家 協会 会長 就任 。1872年 、自邸 を手 がける。 - 1886
年 、ジェームス・ホープレヒト、バウマイスターのR・フォークトらと来日 。東京 を近代 国家 の首都 として整備 しようとした明治 政府 に招聘 され、2か月 の間 に東京 の地形 などを調査 し、都市 計画 案 、議事堂 ・司法省 ・裁判所 の概略 案 を作成 し、帰国 した。ベックマンの都市 計画 案 はパリやベルリンに匹敵 するような壮大 なバロック都市 計画 であったが、財政 上 困難 であり、まもなく計画 は縮小 された。 - 1887
年 、ベルリンでまとめた議事堂 などの設計 案 を持 ってエンデが来日 した。しかし、エンデ帰国 の直後 に外務 大臣 井上 馨 が辞任 したことで官庁 集中 計画 そのものが頓挫 することになった。議事堂 ・司法省 ・裁判所 の設計 は続 けられたが、1890年 、エンデ・ベックマンとの契約 も解除 された。 - 1893
年 、ベルリン動物 園 協会 理事 。1897年 からは会長 。 - 1895
年 、エンデ・ベックマンの設計 に基 づく司法省 ・裁判所 が竣工 した。 - 1902
年 、枢密 建築 監督 官 授与 。建築 家 協会 名誉 会員 。 - 1902
年 、永眠 - ベルリン
動物 園内 には、ベックマンの胸像 が設置 され功績 をたたえられている。ベックマンは日本 の官庁 計画 に関 する記録 として、「日本 旅行 記 」、また回想 録 を残 している。計画 に際 し、本国 の協力 の下 で東京 の山 の手 に地震 観測 所 を設置 。
事務所 の実績 と作品
[旧 司法省 庁舎 (現存 、法務省 旧 本館 )大審院 庁舎 (取 壊)- プロイセン
技術 建築 局 主催 フランクフルト中央 駅 コンペティション(1880年 ) - ヴィルヘルム1
世 記念 碑 設計 競技 (1890年 ) - ヴィルヘルムスヘーエ
郊外 住宅 地 計画 (ペーター・ヨセフ・レンネらと1866年 ) - ベルリン
大 聖堂 コンペティション(1868年 ) - ドイチェスハウス
協会 集会 所 コンペティション(1887年 )1等 当選 、実施 - プロイセン
国会 議事堂 案 第 1次 2等 (1872年 ) - ハンブルク
市庁舎 落選 (1878年 ) - プロイセン
国会 議事堂 案 第 2次 3等 (1882年 ) - ライプツィヒ
裁判所 落選 (1885年 ) 旧 ファン・デア・ハイト邸 - ゲルマニア
保険 生命 会社 社屋 1865年 住居 付 店舗 ローテス・シュロス 1867年 - カブルーン
邸 1867年 - ベルリン
動物 園 動物 舎 1870年 -1873年 - プロイセン
土地 信用 銀行 1874年 - ドイツウニオンバンク 1874
年 - マイスナー
邸 1876年 - ボルジビ
邸 1875年 - グランドオテル・ド・ローム
- カフェ・バウアー 1876
年 - レント
邸 1882年 手形 取引 銀行 増設 1881年 西 プロイセン州 議会 建物 1882年 民族 博物館 1885年 - デッサウ・
皇太子 宮殿 1886年 - ブランデンブルク
州 議会 建物 1887年 - ダルムシュタット
商 工業 銀行 1892年