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一番いちばんせら康子やすこ

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一番いちばんせら 康子やすこ(いちばんがせ やすこ、1927ねん1がつ5にち[1] - 2012ねん9月5にち)は、日本にっぽん社会しゃかい福祉ふくし学者がくしゃ日本女子大学にほんじょしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ

生涯しょうがい

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台北たいぺいだいいち師範しはん学校がっこう附属ふぞく小学校しょうがっこう台北たいぺい州立しゅうりつ台北たいぺいだいいち高等こうとう女学校じょがっこうて、1945ねん日本女子大にほんじょしだい学校がっこう家政学部かせいがくぶだいさんるい卒業そつぎょうした。1953ねん法政大学ほうせいだいがく法学部ほうがくぶ労働ろうどう学科がっか卒業そつぎょうし、1956ねんどう大学院だいがくいん社会しゃかい科学かがく研究けんきゅう経済けいざいがく専攻せんこう修士しゅうし課程かてい修了しゅうりょうした。1961ねんどう博士はかせ後期こうき課程かてい単位たんい取得しゅとく退学たいがくした。1966ねん法政大学ほうせいだいがくより経済けいざいがく博士はかせ学位がくい取得しゅとくした。博士はかせ論文ろんぶんだいは「アメリカ社会しゃかい福祉ふくし発達はったつ」。

日本女子大学にほんじょしだいがく教授きょうじゅ1995ねん3がつ定年ていねん退職たいしょく)、東洋大学とうようだいがく社会学部しゃかいがくぶ教授きょうじゅ1997ねんまで)、長崎純心大学ながさきじゅんしんだいがく人文学部じんぶんがくぶ教授きょうじゅ山野美容芸術短期大学やまのびようげいじゅつたんきだいがく客員きゃくいん教授きょうじゅ歴任れきにんした。日本女子大学にほんじょしだいがくでは人間にんげん社会学部しゃかいがくぶ創設そうせつしゃとして初代しょだいがく部長ぶちょうつとめた。

どものころしたしんでいたうま戦争せんそうんだことからしし医師いし目指めざすが、当時とうじ女性じょせいであることでそれはかなわず、わりに動物どうぶつ愛護あいごというてんから社会しゃかい福祉ふくしみちはいる。アメリカスウェーデン社会しゃかい福祉ふくし研究けんきゅう実践じっせんとして、高齢こうれいしゃ福祉ふくし児童じどう福祉ふくし障害しょうがいしゃ福祉ふくしなど幅広はばひろ手掛てがけた。また阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさいからの復興ふっこうにも尽力じんりょくした。

日本女子大学にほんじょしだいがく最終さいしゅう講義こうぎ成瀬なるせ仁蔵にぞう社会しゃかい改良かいりょう思想しそう」は、日本女子大学にほんじょしだいがく定年ていねん退職たいしょく記念きねんしてまれた論文ろんぶんしゅうである一番いちばんせら康子やすこ編著へんちょ『21世紀せいき社会しゃかい福祉ふくしがく』(有斐閣ゆうひかく 1995ねん)におさめられている。

九条くじょう科学かがくしゃかいびかけにんつとめていた[2]

2012ねん9がつ5にちのう梗塞こうそくのため死去しきょした[3]。85さいぼつ[1]

おも著作ちょさく

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監修かんしゅう

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  • 芳賀はがのぼる中嶌なかじまくにでん浩一こういち監修かんしゅう)『日本にっぽん女性じょせい人名じんめい辞典じてん日本にっぽん図書としょセンター、1993ねん6がつ25にちISBN 4-8205-7128-1 
    • 芳賀はがのぼる中嶌なかじまくにでん浩一こういち監修かんしゅう)『日本にっぽん女性じょせい人名じんめい辞典じてん』(普及ふきゅうばん日本にっぽん図書としょセンター、1998ねんISBN 4-8205-7881-2 

親族しんぞく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 一番ケ瀬いちばんがせ康子やすこ」『デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus』https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E7%95%AA%E3%82%B1%E7%80%AC%E5%BA%B7%E5%AD%90コトバンクより2023ねん5がつ5にち閲覧えつらん 
  2. ^ きゅうじょう科学かがくしゃかいびかけにんメッセージ (2005.3.13)
  3. ^ 訃報ふほう:一番ケ瀬いちばんがせ康子やすこさん85さい日本女子大にほんじょしだい名誉めいよ教授きょうじゅ 毎日新聞まいにちしんぶん 2012ねん9がつ12にち閲覧えつらん[リンク]

外部がいぶリンク

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