三井みつい米松よねまつ

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三井みつい米松よねまつ

三井みつい 米松よねまつ(みつい よねまつ、1874ねん明治めいじ7ねん4がつ27にち[1]1953ねん昭和しょうわ28ねん4がつ15にち[2])は、のう商務しょうむ官僚かんりょう商工しょうこう官僚かんりょう実業じつぎょう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

きゅう対馬つしま藩士はんし佐伯さえきくもたいら二男じなんとして佐賀さがけんのち三潴みずまけん長崎ながさきけんとなる)下県しもあがたぐん厳原いずはらまれ(あに教育きょういくしゃ佐伯さえき小弥太こやた)、のち福山ふくやまはん三井みつい豊次郎とよじろう養子ようしとなった[3][4]だい高等こうとう学校がっこうて、1901ねん明治めいじ34ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく英文えいぶん卒業そつぎょうした[3]。さらにどう大学だいがく法科ほうか大学だいがくはいり、1906ねん明治めいじ39ねん)にえい法科ほうか卒業そつぎょうした[3]翌年よくねんのう商務省しょうむしょう入省にゅうしょう水産すいさんきょくぞく[5]水産すいさん講習こうしゅうしょ教授きょうじゅ水産すいさんきょく書記官しょきかんのう商務しょうむ書記官しょきかん福岡ふくおかこうつとむ署長しょちょう東京とうきょうこうつとむ署長しょちょうのう商務省しょうむしょう水産すいさん局長きょくちょう商工しょうこうしょう鉱山こうざん局長きょくちょう社会しゃかいきょく参与さんよなどを歴任れきにんした[4]1929ねん昭和しょうわ4ねん)、商工しょうこう次官じかん就任しゅうにんし、翌年よくねん退官たいかんした[4]

退官たいかん合同ごうどう漁業ぎょぎょう株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょうみなみ樺太からふと鉱業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょうきた樺太からふと鉱業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょう理研りけん工業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ取締役とりしまりやくだい日本にっぽん水産すいさんかい会長かいちょう中華ちゅうか日本にっぽん貿易ぼうえき連合れんごうかい会長かいちょうなどをつとめた[6][7]
1953ねん4がつ15にち卒去そっきょ享年きょうねん79。墓所はかしょ谷中たになか霊園れいえんかぶと7ごう-15。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんきん現代げんだい人物じんぶつ履歴りれき事典じてん』499ぺーじ
  2. ^ 水産すいさん年鑑ねんかん pp.438-439 1953.
  3. ^ a b c 日本にっぽん精華せいか 1914.
  4. ^ a b c 落合おちあいまち p.257 1932.
  5. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2001ねん11月発行はっこう、197ぺーじ
  6. ^ 水産すいさん年鑑ねんかん pp.438-139 1953.
  7. ^ 人事じんじ興信録こうしんろく 1943.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 北川きたがわ由之助よしのすけへん日本にっぽん精華せいか毎日まいにち通信つうしんしゃ、1914ねん 
  • 落合おちあいまち刊行かんこうかいへん落合おちあいまち落合おちあいまち刊行かんこうかい、1932ねん 
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろく だい14はんした)』人事じんじ興信所こうしんじょ、1943ねん 
  • 水産すいさん研究けんきゅうかい水産すいさん年鑑ねんかん 1954年版ねんばん水産すいさん週報しゅうほうしゃ出版しゅっぱん、1953ねん 
  • はたいく彦編『日本にっぽんきん現代げんだい人物じんぶつ履歴りれき事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2002ねん