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三宅みやけ友信とものぶ

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三宅みやけ友信とものぶ
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文化ぶんか3ねん11月27にち1807ねん1がつ5にち
死没しぼつ 明治めいじ19ねん1886ねん8がつ8にち
改名かいめい はがねぞう友信とものぶ
別名べつめい しんじ)、あつしときおうやま芳春よしはるかたてつごう
戒名かいみょう 芳春よしはるいん殿どのあつしおう友信とものぶだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう豊島としま雑司ヶ谷ぞうしがやもときよしてら
官位かんい おくしたがえよん
はん 三河みかわ田原たはらはん隠居いんきょかく
氏族しぞく 三宅みやけ
父母ちちはは ちち三宅みやけ康友やすともはは:於銀(側室そくしつ
兄弟きょうだい 亀吉かめきちかんかず康明やすあき友信とものぶ
つま 側室そくしつ:於磯、なみ、於歌
かんたもつ大河内おおこうち信義のぶよし貞三郎ていさぶろううしとら大島おおしま義行よしゆき五郎ごろうたまじょ多門たもんよんこれすけとおる
鑅(駒井こまい長五郎ちょうごろうしつのち加藤かとうただししつ)、鏐(まき助右衛門すけえもんしつ)、すず日下くさか寿之としゆきすけしつ)、きみ、とみ、きく、きよ(森川もりかわしゅんしんしつ
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三宅みやけ 友信とものぶ(みやけ とものぶ)は、三河みかわ田原たはらはん隠居いんきょかく蘭学らんがくもの

生涯しょうがい

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文化ぶんか3ねん1806ねん)11月27にち田原たはらはんだい8だい藩主はんしゅ三宅みやけ康友やすともよんおとことして江戸えどこうじまち現在げんざい東京とうきょう千代田ちよだ三宅みやけざか付近ふきん)の田原たはらはん上屋敷かみやしきまれた。文政ぶんせい2ねん1819ねん)4がつ田原たはら引越ひっこし、田原たはらしろ藤田ふじたまる住居じゅうきょした。同年どうねん5がつ15にち藩校はんこう成章せいしょうかんこうぬし萱生かようげんじゅんすすむめいにより、友信とものぶ論語ろんごの「あずかともとも交言而不しん乎」からせん)と名乗なのる。

文政ぶんせい6ねん1823ねん)10がつ江戸えどもどり、翌年よくねんごろから渡辺わたなべ崋山かざん影響えいきょうけて蘭学らんがく研究けんきゅうおこなうようになった。文政ぶんせい10ねん1827ねん)にあに藩主はんしゅ康明やすあきが28さい病死びょうしすると後継こうけい問題もんだい後述こうじゅつ)が発生はっせいし、その結果けっかさんたく血統けっとう友信とものぶではなく、姫路ひめじはん酒井さかいから持参じさんきんつき養子ようしとしてはいってきたかんただし藩主はんしゅとなった。友信とものぶぜん藩主はんしゅあつかいの隠居いんきょかくとされ、隠居いんきょりょう2000ひょうあまりあたえられて巣鴨すがも下屋敷しもやしき住居じゅうきょし、「巣鴨すがもさま」とばれるようになった。23さいわかさで隠居いんきょとなった友信とものぶ酒色しゅしょくおぼれることもあったが、側用人そばようにんとなった崋山かざんすすめにより一層いっそう蘭学らんがく研究けんきゅうみ、隠居いんきょりょうおおくを蘭書らんしょ購入こうにゅうついやした。長崎ながさき留学りゅうがくからもどってきた鈴木すずき春山はるやまのほか、高野たかの長英ちょうえい小関おぜきさんえいらをやとってこれら蘭書らんしょ翻訳ほんやくおこなった。また、崋山かざん蘭書らんしょ購入こうにゅう希望きぼうしたさいには友信とものぶ資金しきん提供ていきょうすることもあった。

天保てんぽう10ねん1839ねん)に蛮社のごくこり、翌年よくねん1がつ崋山かざん田原たはら護送ごそうされると、友信とものぶ蘭学らんがくしゃ弾圧だんあつけるため、そして崋山かざん身辺しんぺん見守みまもるために田原たはらうつった。崋山かざんの『もりこまにちれき』には、崋山かざんははさかえ長女ちょうじょ友信とものぶまねかれ、城内きうち馳走ちそうあたえられて宿泊しゅくはくした記事きじがある。天保てんぽう12ねん1841ねん)に崋山かざん自刃じじんすると非常ひじょう落胆らくたんし、ひろし元年がんねん1844ねん)12月にふたた江戸えどもどった。うしなった友信とものぶはさらに蘭学らんがく情熱じょうねつそそぎ、春山はるやま村上むらかみはん上田うえだあきらあきら相手あいて西洋せいようじゅうじん砲術ほうじゅつ導入どうにゅうちかられた。

安政あんせい3ねん1856ねん)、幕府ばくふしげるしょ調ちょうしょ設置せっちすると、語学ごがくりょく評価ひょうかされて推薦すいせんけて入所にゅうしょし、兵書へいしょ翻訳ほんやくして『泰西たいせいへいかんはつへん』を出版しゅっぱんしている。慶応けいおう3ねん1867ねん)、藩主はんしゅとなっていた長男ちょうなんかんたもつとも田原たはら帰国きこくし、朝廷ちょうてい帰順きじゅんしめす。

維新いしん田原たはら城内きうち大手おおて住居じゅうきょして「大手おおてさま」としょうされた。晩年ばんねん東京とうきょう自適じてき生活せいかつおくり、明治めいじ19ねん(1886ねん)8がつ8にち死去しきょした。享年きょうねん81。昭和しょうわ10ねん1935ねん)にしたがえよんおくられた。

藩主はんしゅ後継こうけい問題もんだい

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文政ぶんせい10ねん(1827ねん)7がつ10日とおか藩主はんしゅ三宅みやけ康明やすあきが28さいというわかさで病死びょうしする。田原たはらはん知行ちぎょうだかくらべて藩士はんしかずおおく、さらに所領しょりょう田原たはら痩地やせちであったうえ風水害ふうすいがい被害ひがいおおく、つね財政難ざいせいなん状況じょうきょうであった。そこではん首脳しゅのう貧窮ひんきゅうするはん財政ざいせい打開だかいするため、当時とうじ家老がろう河合かわいみちしん財政ざいせい再建さいけんにより比較的ひかくてき裕福ゆうふくであった姫路ひめじはんあるじ酒井さかいから持参じさんきん目当めあての養子ようしむかえようとした。これにたいし、三宅みやけ血統けっとう重視じゅうしした渡辺わたなべ崋山かざん真木まきじょうまえはこれにつよ反発はんぱつし、康明やすあき異母弟いぼていである友信とものぶ擁立ようりつしようと運動うんどうおこなった。

はん首脳しゅのう病気びょうき療養りょうよう名目めいもく友信とものぶ田原たはらおくることに成功せいこうし、10月11にち友信とものぶ崋山かざん萱生かようげんじゅん上田うえだあきらあきららをれて江戸えどった。10月15にち酒井さかいからいねわか三宅みやけかんただし)を養子ようしむかえる内約ないやく成立せいりつし、はんない公表こうひょうされた。10月22にち養子ようし縁組えんぐみ成立せいりつほう田原たはらつたえられると、友信とものぶ田原たはらじょう藤田ふじたまる事実じじつじょう軟禁なんきんされ、翌年よくねん5がつにようやく江戸えどもどることがゆるされた。

かんただし藩主はんしゅとなって以降いこうも、崋山かざん三宅みやけ血統けっとうのこそうと奔走ほんそうし、かんただしむすめ友信とものぶ長男ちょうなんかんたもつめとわせて婿養子むこようしとすることに成功せいこうした。一方いっぽう姫路ひめじはん河合かわいみちしんとも交渉こうしょうして、婿養子むこようしについての諒解りょうかいた。崋山かざん死後しごかんただし正室せいしつすすめもあって実子じっし世継よつぎにしようとするが、真木まきじょうまえの諫死によりかんたもつ世継よつぎとすることをさい確認かくにんした。よしみひさし3ねん1850ねん)にかんたもつだい12だい藩主はんしゅとなり、友信とものぶ藩主はんしゅ実父じっぷとしてさらなる尊敬そんけいあつめるようになった。

著書ちょしょ訳書やくしょ

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著書ちょしょ

  • くくじょうろく
  • かつらかげくさり
  • 三河そうごこくこころざし
  • 芳春よしはるえんぐうひつ
  • 崋山かざん先生せんせい略伝りゃくでん』(1881ねん

訳書やくしょ

  • 西洋せいようじんけんおっと日本にっぽん』(1832ねん
  • 『鈐林必携ひっけいはつへん』(1851ねん
  • 『鈐林必携ひっけい後編こうへん』(1853ねん
  • 泰西たいせいへいかんはつへん』(1856ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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