三宅みやけ康明やすあき

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三宅みやけ 康明やすあき(みやけ やすてる、寛政かんせい12ねん7がつ3にち1800ねん8がつ22にち) - 文政ぶんせい10ねん7がつ10日とおか1827ねん8がつ31にち))は、三河みかわこく田原たはらはんだい10代藩主はんしゅ田原たはらはん三宅みやけ13だい

だい8だい藩主はんしゅ三宅みやけ康友やすとも三男さんなんで、だい9だい藩主はんしゅ三宅みやけやすしおとうと正室せいしつ岡部おかべちょうまこと養女ようじょ土井どいとしよしむすめ)。官位かんいしたがえ備前びぜんもり

文政ぶんせい6ねん1823ねん)にあにかんかず死去しきょしたため、そのあといだ。しかし文政ぶんせい10ねん(1827ねん)7がつ10日とおか嗣子ししくして病死びょうしした。はんないでは康明やすあきを10月23にちまでせていたという。跡継あとつぎとして、重臣じゅうしん一人ひとり渡辺わたなべ崋山かざん康明やすあきおとうと友信とものぶしたが、重臣じゅうしんたちは財政ざいせい窮乏きゅうぼうのために他家たけから養子ようしむか持参じさんきんることをかんがえ、播磨はりまこく姫路ひめじはんおも酒井さかい忠実ちゅうじつろくなんである三宅みやけかんただしむかえて藩主はんしゅとした。墓所はかしょ愛知あいちけん田原たはら北番きたばんじょうれいいわおてら

系譜けいふ[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

養子ようし