(Translated by https://www.hiragana.jp/)
九品官人法 - Wikipedia コンテンツにスキップ

九品くほんかんじんほう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

九品くほんかんじんほう(きゅうひんかんじんほう)は、中国ちゅうごくすすむ南北なんぼくあさ時代じだいおこなわれた官吏かんり登用とうようほうさんこく時代じだいたかしぶんみかど220ねんはじめられ、ずいぶんみかど583ねん廃止はいしされ、わって科挙かきょ採用さいようされた。

解説かいせつ

[編集へんしゅう]

このほう尚書しょうしょちん建議けんぎにより、曹丕曹操そうそうから継承けいしょうしたすぐ施行しこうされたものである。おなねんこうかんから禅譲ぜんじょうされ、曹丕が皇帝こうていくらいのぼっている。

このほう官僚かんりょう最高さいこういちひんかんから最低さいていきゅうひんかんまでの9とう分類ぶんるいする(これをかんひんぶ)。同時どうじぐんごとに中正ちゅうせいかんばれる役職やくしょく任命にんめいし、管内かんない人物じんぶつ見極みきわめさせて一品いっぴんからきゅうひんまでに評価ひょうかする(この人物じんぶつへの評価ひょうかさとひんぶ)。のち中正ちゅうせいかん司馬しばによりぐんひとじょう行政ぎょうせい区分くぶんであるしゅうにもかれるようになり(しゅうだい中正ちゅうせいぐんごとの中正ちゅうせいかんは「小中こなかただし」とばれた)、これがのちべる貴族きぞくそうによる支配しはいさら強固きょうこなものとしてゆく。この制度せいどでは中正ちゅうせい非常ひじょうおおきな役割やくわりめることから、この制度せいど九品くほん中正ちゅうせいせいともぶ。

このさとひんもと官僚かんりょうへの推薦すいせんおこなわれ、最初さいしょさとひんよん段階だんかいからはじまる。たとえばさとひんひんならばろくひんかん官僚かんりょうとしての出発しゅっぱつてんおこりかんばれる)となる。その順調じゅんちょう出世しゅっせしていけば最終さいしゅうてきにはさとひんおなしょまで出世しゅっせし、それ以上いじょうのぼれないようになっている。

この制度せいど目的もくてきは、こうかんからへと移行いこうするにさいし、こうかんつかえた官僚かんりょうたちの能力のうりょくたいする忠誠ちゅうせい見極みきわめて人材じんざい吸収きゅうしゅうすることかんだいさときょさとせんせいでは地方ちほう有力ゆうりょくしゃ主導しゅどう官僚かんりょう推薦すいせんおこなわれていたがこれを政府せいふ主導しゅどうせること、かんだい徳行とっこう主体しゅたい人事じんじ基準きじゅんから能力のうりょく主体しゅたい基準きじゅんへと移行いこうすることなどがあるとわれている。

こうかんだいからすで地方ちほうには豪族ごうぞく勢力せいりょくつよちからつようになり、さときょさとせんせいにより官僚かんりょう政府せいふおくしていた。九品くほんかんじんほう名目めいもくじょうはこのような状態じょうたい打破だはするために中正ちゅうせいかんにより人物じんぶつ能力のうりょく見極みきわめさせるということであったが、実際じっさいには地方ちほうちから関係かんけいがそのままさとひん反映はんえいされることになる。だいには能力のうりょく重視じゅうし理念りねんたもたれていたが、なつほうげん司馬しば懿の質問しつもんたいし、はやくも弊害へいがい指摘してきした。中正ちゅうせいかん権限けんげんつよすぎ、実力じつりょくよりも名声めいせい賄賂わいろ利用りようして中正ちゅうせいかんちかづける人間にんげん優遇ゆうぐうされているといい、中正ちゅうせいかん権限けんげん縮小しゅくしょうするよう主張しゅちょうした。

249ねん司馬しば実権じっけんにぎると、中正ちゅうせいかんうえに、ぎゃくにより権限けんげんつよしゅう大中おおなかただし導入どうにゅうした。これによりちからのあるものがより介入かいにゅうしやすくなった。から司馬しば西にしすすむ移行いこうしたころから、さとひん才能さいのうではなく、おやさとひんと、本人ほんにん性格せいかく重視じゅうしされるようになった。しかも、時代じだいがるにつれおやさとひんとく重視じゅうしされるようになった。こうしてさとひん世襲せしゅうはじまり、豪族ごうぞくそう変化へんかして貴族きぞくそう形作かたちづくるようにながれていった。

さとひんうち一品いっぴんはほとんどえらばれることがく、ひん最高さいこうである。このさとひんひんいている家柄いえがら門地もんちひんあるいは甲種こうしゅなどとばれ、最高さいこう家格かかくとされた。このさとひんひん以上いじょうになると中正ちゅうせい選任せんにん意見いけんうことが出来できるようになり、事実じじつじょう官僚かんりょう任命にんめいけんかれ貴族きぞくにゆだねられることになった。この状態じょうたい批判ひはんした有名ゆうめい言葉ことばとして、西にしすすむりゅうあつし(りゅうき)の「上品じょうひんかんもんひく家格かかくく、下品げひんいきおいぞくし」という言葉ことばがある。もっとも、さとひんおこり家職かしょく決定けっていやその昇進しょうしん経路けいろ決定けっていする重要じゅうよう要素ようそであったが、吏部などの人事じんじ関係かんけい官庁かんちょう権限けんげんとく人事じんじ評価ひょうかによる昇進しょうしん遅速ちそくなど)までは否定ひていされなかったし、なによりも政情せいじょう不安ふあん官吏かんり立場たちば不安定ふあんていなものとしており、円滑えんかつ昇進しょうしんまでを保証ほしょうしたものではなかった。

六朝りくちょう時代じだいにはこの傾向けいこうさらすすみ、しんかんにごかん(せいかん・だくかん)とうものがまれる。たとえばいずれじょうへとのぼさとひんひんおこりかんろくひんかんさとひんろくひん最終さいしゅうてき官位かんいであるろくひんかんではおな官位かんいであってもその内容ないようがつけられる。さとひんうえもの役職やくしょくしんかんび、さとひんしたもの役職やくしょくにごかんぶ。この区分くぶんには権力けんりょく有無うむ同時どうじ当時とうじ貴族きぞくたちのこのみが反映はんえいされており、たとえば監察かんさつかん地方ちほう役職やくしょくなどは忌避きひされていた。このためしんかんはおのずと任期にんきみじかくなり腰掛こしかてき様相ようそうていするようになった。

九品くほんかんじんほうおも南朝なんちょう継続けいぞくされた制度せいどであるが、きたたかし孝文たかふみみかど部分ぶぶんてきにこの制度せいどれて貴族きぞくそう形成けいせいはかっている。一方いっぽう南朝なんちょうりょうたけみかど503ねん508ねんに2改革かいかくおこなった。その結果けっか従来じゅうらいななひんかんからきゅうひんかんながれがいかん(「とうひん」)としてさとひんさんひん以下いか官職かんしょくとされ、のこされた上位じょういろくひんじゅうはちはん再編さいへんした。再編さいへんされたじゅうはちはんあらたなきゅうひんとみなされ、最高さいこうじゅうはちはんせい一品いっぴん最下位さいかいいちはんしたがえきゅうひんとも呼称こしょうされた。また、てられたきゅうななひんかん以下いか後世こうせい胥吏制度せいど源流げんりゅうとなった。ひねになるとにんせい導入どうにゅうされ、さとひんひくくても父親ちちおや官職かんしょくたかければその地位ちいおうじたおこりかんあたえられ、後世こうせいおんかげ源流げんりゅうとなった。きた滅亡めつぼうきたひとしになると試験しけん制度せいど部分ぶぶんてきれられるようになり、ずいだいはいると科挙かきょ制度せいど成立せいりつしてきゅうひんかんじんほう完全かんぜん廃止はいしされた。

なお、きゅうひん官僚かんりょうける制度せいどはそのがれ、かんむりじゅうかい位階いかいなど日本にっぽんにも影響えいきょうおよぼしている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 宮崎みやざきじょう九品くほんかんじんほう研究けんきゅう』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ
  • 藤井ふじいただしすすむ南朝なんちょうの遷官制度せいど』(京都きょうと大学だいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2013ねん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]