井上いのうえまさし

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井上いのうえまさし
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん 寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん
死没しぼつ 正徳まさのり6ねん3月1にち1716ねん4がつ22にち
改名かいめい 虎之助とらのすけ宮内みやうち幼名ようみょう)、せい
戒名かいみょう やまのぼりげんさとるいん
墓所はかしょ 東京とうきょう文京ぶんきょう白山はくさん浄心寺じょうしんじ
官位かんい したがえ筑後ちくごもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家綱いえつな綱吉つなよし家宣いえのぶ家継いえつぐ
はん 下総しもうさ高岡たかおかはんあるじ
氏族しぞく 井上いのうえ
父母ちちはは ちち井上いのうえまさしきよし養父ようふ井上いのうえ政則まさのり
兄弟きょうだい 内記ないきせいせいしき坪内つぼうち定重さだしげ正室せいしつ
野々山ののやまもとえきしつ
つま 正室せいしつ毛利もうり就隆むすめ
せいちゅうきょう次男じなん)、正豊まさとよ三男さんなん)、政経せいけい四男よつお)、せいもり六男むつお)、久保くぼ勝政かつまさ養女ようじょ
鳥居とりい成昭しげあきしつ大沢おおさわはじめぬき養女ようじょ松前まさきはしひろしつ飯塚いいづか昭之あきゆき養女ようじょ渋江しぶえたねじきむろ井上いのうえ政武まさたけ養女ようじょ)、座光寺ざこうじためおもんばかしつ
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井上いのうえ まさし(いのうえ まさあきら)は、はじめ1000せき旗本はたもと。のちに下総しもうさ高岡たかおかはん3だい藩主はんしゅ

寛文ひろふみ元年がんねん(1661ねん)、2だい藩主はんしゅ井上いのうえまさしきよし次男じなんとしてまれる。長兄ちょうけい内記ないきがいたため、1000せき旗本はたもとであった叔父おじ井上いのうえ政則まさのり養子ようしとなり、寛文ひろふみ9ねん1669ねん)に家督かとくいで旗本はたもととなった。しかし内記ないき早世そうせいしたため、家督かとく井上いのうえまさしきょうゆずり、みずからは高岡たかおかはんもどって世子せいしとなった。のべたから3ねん1675ねん)にちち死去しきょしたため家督かとくいだ。このとき、おとうとせいしきに1500せき分与ぶんよしたため、高岡たかおかはんは1まん1500せきから1まんせきになった。のべたから4ねん1676ねん)12月、したがえ筑後ちくごまもる叙位じょい任官にんかんする。

のべたから9ねん1681ねん)8がつ駿府すんぷじょうばんにんじられる。元禄げんろく3ねん1690ねん)7がつには大坂おおさかばんにんじられ、元禄げんろく8ねん1695ねん)には日光にっこう祭礼さいれい奉行ぶぎょうにんじられるなど、しょやく歴任れきにんした。

正徳しょうとく6ねん(1716ねん)3がつ1にち死去しきょした。享年きょうねん56。あと長男ちょうなんせいいだ。

さきに1500せき分与ぶんよさせたおとうと旗本はたもとせいしき次男じなんであった井上いのうえただしあつしは、常陸ひたち下妻しもづまはんおも井上いのうえただしちょう養子ようしとなってそのあといだ。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ