(Translated by https://www.hiragana.jp/)
井陘の戦い - Wikipedia コンテンツにスキップ

陘のたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
陘のたたか
戦争せんそうすわえかん戦争せんそう
年月日ねんがっぴ紀元前きげんぜん204ねん10月
場所ばしょ
結果けっかかんぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
かん ちょう
指導しどうしゃ指揮しきかん
かんしん
ちょうみみ
曹参
ひねあまり
戦力せんりょく
30000 200000
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい
すわえかん戦争せんそう

陘のたたか(せいけいのたたかい)とは、中国ちゅうごくすわえかん戦争せんそうなかかんぐんちょうぐんとが陘(現在げんざい河北かほくしょういししょう陘県)にて激突げきとつしたたたかい。かんしんつね山王さんのうちょうみみひきいるかんぐん背水はいすいじんという独創どくそうてき戦術せんじゅつ使つかってちょうぐんやぶった。

事前じぜん経緯けいい

[編集へんしゅう]

劉邦りゅうほうぐんべつはたらけぐんとして進発しんぱつしたかんしんぐんは、まずたかしひょう)をくだし、だいだいそうなつせつ)をくだしてちょうちょう)へとやってきていた。ちょうめるに先立さきだち、兵力へいりょく不足ふそく劉邦りゅうほうほんぐんかんしんたいしてへいおくるように命令めいれいし、かんしんはこれにこたえてへいおくったためにかんしんぐん兵力へいりょくすくなく、さんまん程度ていどしかなかった。しかもその内訳うちわけ現地げんち徴兵ちょうへいしたり増援ぞうえん派遣はけんされた新兵しんぺいおおく、士気しき練度れんどともたかへいすくなかった。

一方いっぽうちょうちょう歇と宰相さいしょう成安なりやすきみひねあまりじゅうまんごうした大軍たいぐん派遣はけんしてかんしんぐん撃退げきたいしようとしていた。ちょうひだりしゃ将軍しょうぐんがおり、ひねあまりたいし、たいゆき山脈さんみゃく合間あいまとおる「陘口」という馬車ばしゃべてはしることも出来できないようなせま谷間たにま利用りようして、ここをかんしんかよっているあいだ出口でぐち本隊ほんたいふさぎ、別働隊べつどうたい使つかってかんしんぐん後方こうほう食料しょくりょう部隊ぶたいおそい、さらに挟撃きょうげきする作戦さくせん提案ていあんした。しかしひねあまりは「小数しょうすう相手あいて大軍たいぐんさくろうしては、ちょうへいよわいと諸侯しょこうあなどられる」と正攻法せいこうほうにこだわりこれを却下きゃっかした。

ひねあまり項羽こううぐん在籍ざいせきしてあきら説得せっとくして項羽こうう降伏ごうぶくさせるなど弁舌べんぜつでの功績こうせきげていたが、みずかぐんひきいた経験けいけんすくなかった。

かんしん陘口の手前てまえ宿営しゅくえいしてちょうぐん内部ないぶさぐらせていた。用心深ようじんぶか無理むりたたかいをしないかんしんは、もしここでめられればひとたまりもないことをさっしていたのであるが、ひだりしゃさく採用さいようされなかったことをだいよろこびし、安心あんしんして陘の隘路あいろとおった。

そして、でんひろしちょうあおめいじてせんへいけ、これにかんはたたせて、裏側うらがわからちょう本城ほんじょうおそうように指示しじした。また兵士へいし簡単かんたん食事しょくじをさせたのちに、しょしょうたいして「今日きょうちょうぐんやぶってからみなで食事しょくじにしよう」とったが、しょしょうだれ本気ほんきにしなかった。

背水はいすいじん

[編集へんしゅう]

陘口をけたかんしんぐんは、かわにして布陣ふじん城壁じょうへききずいた。『じょう繚子てんかんへんに「背水はいすいひねためぜっ」(みずにしてひねじん)すればぜっ場所ばしょ)となる)とある。みずまえにしてやまじんるのが布陣ふじん基本きほんであり、これをちょうぐんは「かんしん兵法ひょうほう初歩しょほらない」とわらい、兵力へいりょくをもって一気いっきほろぼそうとほぼぜんぐんひきいて出撃しゅつげきかんしんぐんめかかった。

かんしんはじ迎撃げいげきけたりをしてこれをおびきせ、河岸かわぎしじんにてちょうぐんむかった。ちょうしろのこっていたへいも、味方みかた優勢ゆうせい殲滅せんめつ好機こうきて、そのほとんどが攻勢こうせい参加さんかした。兵力へいりょくではちょうぐん圧倒的あっとうてきうえであったが、のちみちのないかん兵士へいしたちは必死ひっしたたかったので、ちょうぐんやぶることができなかった。

ちょうぐんかんしんぐん、さらに河岸かわぎしじんごとき容易よういれるとおもいきや、めあぐね被害ひがいえてきたので嫌気いやけし、いったんしろくことにした。ところがしろちかくまでもどってみると、そこには大量たいりょうかんはたっていた。しろにはごくわずかなへいしかのこっておらず、ちょうぐんかんしんぐんたたかっているすき支隊したいとしたのである。大量たいりょうにはためくかんはたちょうへいたちは「かん大軍たいぐんしろとされている」と動揺どうようして逃亡とうぼうはじめ、さらにかんしん本隊ほんたいうしろからめかかってきたので、挟撃きょうげき恐怖きょうふにかられたちょうぐん総崩そうくずれとなりやぶれた。

ひねあまりちょうあおによって捕虜ほりょとなり、泜水で処刑しょけいされ、逃亡とうぼうしたちょう歇もじょうこく現在げんざい河北かほくしょう邢台しん都区とく)でらえられて処刑しょけいされた。またひだりしゃかんしんによってらわれるが、かんしん上座かみざ用意よういしてひだりしゃ先生せんせいしょうし、つばめくださくけんじてもらった。そしてひだりしゃさくしたがつばめろうせずくだすことに成功せいこうした。ちなみに、かんしんたずねられたひだりしゃは、はじ自分じぶんかんがえをべることに躊躇ちゅうちょしたが、そのときにかれはなった「敗軍はいぐんしょうへいかたらず」(『史記しき』淮陰こう列伝れつでん)という言葉ことば有名ゆうめいである。

のちにこの布陣ふじんでなぜてたのかとかれたかんしんは、「わたし兵法ひょうほうしょいてあるとおりにしただけだ。すなわち『へい死地しちにおいてはじめてきる(「これれをところきにとうずれば、しょ・劌のいさみなり(兵士へいしたちをどこにものない窮地きゅうちけば、おのずとせんもろ曹沬(曹劌)のように勇戦ゆうせん力闘りきとうする)」『孫子まごこきゅうへん)』」とこたえている。これが背水はいすいじんである。

現在げんざいでも「背水はいすいじん」は、退路たいろち(あるいはたれ)決死けっし覚悟かくごってことにあたるという意味いみ故事こじ成語せいごとなっているが、かんしんはそれだけでなくわざと自軍じぐんあなどらせててきぐんしろそとさそし(調しらべとら離山はなれやま)、背水はいすいじんけない一方いっぽうそらにさせたしろとし、てき動揺どうよういて襲撃しゅうげき勝機しょうきのがさない、と最終さいしゅうてきつための方策ほうさくおこなっているのである。

城塞じょうさいこもった場合ばあい兵力へいりょくすくなくても突破とっぱされないし、瞬時しゅんじ相対そうたいする兵力へいりょく互角ごかく以上いじょうである。これに城壁じょうへき優位ゆういせいへい死力しりょくくわわれば、兵力へいりょく絶大ぜつだいでも相当そうとうたたかうことができる。しかし相手あいて自軍じぐんあなどらず普通ふつうつづければさすがにいつかちるから、相手あいて嫌気いやけしてかえすことも当初とうしょから意中いちゅうにあったのであろう。

これがたんなるけではないてんは、事前じぜんあいだしゃおおはな情報じょうほう収集しゅうしゅうしているところにもることができる。かんしん希代きたい名将めいしょうわれるゆえんである。

考察こうさつ

[編集へんしゅう]

こうかんけんじみかど時代じだい史家しか荀悦は、『かん』のなかでつぎのように考察こうさつしている[1]

陘のたたかいにおいて、かんしんぐんみずにして陣取じんとちょうぐんやぶることができなかった。一方いっぽう彭城のたたかでは、かんおうは睢水にって士卒しそつみずにしてたたかったが、すわえぐん大勝たいしょうわった。おなじ背水はいすいじんでありながら、かんしんかんおうやぶれたのはなぜであろうか。

ちょうぐん国内こくない迎撃げいげきするが、戦況せんきょう有利ゆうりならすす不利ふりなら退しりぞけばよく、必死ひっし覚悟かくごかった。ぎゃくかんしん背後はいごかわがあって退しりぞくことができず、必死ひっしたたかったのである。かんおうのばあいは、ふかてきはいりながら勝利しょうり油断ゆだんして飲酒いんしゅだかかいし、かんぐん臨戦りんせんかまえをうしなっていた。項羽こうう本拠ほんきょてきうばわれ激怒げきどし、配下はいかもまた憤慨ふんがいし、一命いちめいしてたたかったのである。

かんしん決死けっしへいえらんでまもり、ちょうぐんうち顧の士卒しそつによってめている。かんおう怠惰たいだへいしゅをもってふせぎ、項羽こうう鋭気えいきへいしたがえてめている。これが勝敗しょうはいかれとなった。


脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ こうかん・荀悦『かん高祖こうそだかみかど まき2。

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 長谷川はせがわはし へん太平たいへい 2』小学しょうがくかん新編しんぺん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう 55〉、1996ねん3がつ20日はつかISBN 978-4096580554 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]
  • ラスト・スタンド英語えいごばん - 英語えいご慣用かんようで、最後さいごとりで最後さいご抵抗ていこう、そして「背水はいすいじん」ともやくされる。
  • 孫子まごこ (書物しょもつ) - ぐんそうだいななに「かこえ必闕、きゅう寇勿せり」とあり、「包囲ほういにはかならみちつくり、にものぐるいのてきには近寄ちかよるな」とおしえている。