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伊作いさくじょう

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伊作いさくじょう
鹿児島かごしまけん
別名べつめい ちゅう山城やましろかめまるじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 伊作いさく
築城ちくじょうねん 南北なんぼくあさ時代じだい14世紀せいき)?
おも城主じょうしゅ 伊作いさく島津しまつ忠良ただよし
はいじょうねん 1615ねん元和がんわ元年がんねん
遺構いこう るい堀切ほりきりたてほりかく
指定してい文化財ぶんかざい けん指定してい史跡しせき
位置いち 北緯ほくい3130ふん49.7びょう 東経とうけい13021ふん47.5びょう / 北緯ほくい31.513806 東経とうけい130.363194 / 31.513806; 130.363194
地図ちず
伊作城の位置(鹿児島県内)
伊作城
伊作いさくじょう
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伊作いさくじょう(いざくじょう)は、鹿児島かごしまけん日置ひおき吹上ふきあげまち中原なかはらにあった中世ちゅうせい日本にっぽんしろ山城やましろ)。鹿児島かごしまけん指定してい史跡しせき[1]伊作いさくじょうはいくつかのくるわからしろで、本丸ほんまるとくかめまるじょうしょうした。

沿革えんかく

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発祥はっしょう時期じきあきらかではないが南北なんぼくあさ時代じだい島津しまつ分家ぶんけ伊作いさくしろとしてきずかれたとかんがえられる。そのころは「中山なかやましろ」とばれていた。戦国せんごく時代じだいにはここを拠点きょてんとして伊作いさくから相州あいしゅう養子ようしりした島津しまつ忠良ただよしみなみ九州きゅうしゅう統一とういつし、戦国せんごく大名だいみょう島津しまつ雄飛ゆうひのきっかけとなったしろでもあった。相州あいしゅう島津しまつほん宗家そうけとなると伊作いさくじょう外城とじょうひとつとなったが、島津しまつ宝物殿ほうもつでんがおかれ、鹿児島かごしまじょう下士かし交代こうたい番所ばんしょつとめをするなど別格べっかくあつかいをけていた。

1615ねん元和がんわ元年がんねん)の一国一城いっこくいちじょうれいはいじょうになった。

概略がいりゃく

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南北なんぼくあさ時代じだいから戦国せんごく時代じだい増築ぞうちくすすめられてきたしろで、最盛さいせいには南北なんぼく750メートル、東西とうざい1,050メートル、しろいき全体ぜんたい面積めんせきは50まん平方へいほうメートル広大こうだい規模きぼほこっていた。本丸ほんまるたるかめまるじょう以外いがいに「やましろ」「ぞうしろ」「花見はなみじょう」「御仮屋おかりやじょう」「東之ひがしのじょう」「西之にしのじょう」と6つの曲輪くるわもうけられていた。駐車ちゅうしゃじょう、トイレ、案内あんないばんがある。御仮屋おかりやじょう水道局すいどうきょく施設しせつかれ、また耕作こうさくになっているかくもある。

地勢ちせいは、しろひがしからみなみかって伊作いさくがわながれ、きた西側にしがわ多宝寺たほうじかわながれて、天然てんねんほりとなっていた。きたから東側ひがしがわシラス台地しらすだいちにつながっているためまれないようはこほりられていた。

このしろ島津しまつ貴久たかひさ島津しまつただししょう島津しまつ尚久なおひさ忠良ただよしの3にん息子むすこ、そして島津しまつ義久よしひさ島津しまつ義弘よしひろ島津しまつとしひさし島津しまつ家久いえひさ島津しまづよん兄弟きょうだい誕生たんじょうでもあり、記念きねん石碑せきひのこっている。

脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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