出典 しゅってん : フリー百科 ひゃっか 事典 じてん 『ウィキペディア(Wikipedia)』
信仰 しんこう 主義 しゅぎ (英 えい : Fideism)は、信仰 しんこう と理性 りせい は独立 どくりつ したものであるという認識 にんしき 論 ろん の理論 りろん である。信仰 しんこう と理性 りせい は相反 あいはん するものであり、特定 とくてい の真実 しんじつ にたどり着 つ くためには信仰 しんこう の方 ほう が重要 じゅうよう であると主張 しゅちょう される。
アルバン・プランティンガ (英語 えいご 版 ばん ) は信仰 しんこう 主義 しゅぎ を、「信仰 しんこう のみへの排他 はいた 的 てき あるいは基本 きほん 的 てき な依存 いぞん であり、その結果 けっか 理性 りせい が軽視 けいし されることとなり、とりわけ哲学 てつがく 的 てき あるいは宗教 しゅうきょう 的 てき な真実 しんじつ を追究 ついきゅう するために利用 りよう される」と述 の べている。信仰 しんこう 主義 しゅぎ 者 しゃ はそれゆえに「哲学 てつがく 的 てき で宗教 しゅうきょう 的 てき な事柄 ことがら においては、理性 りせい よりも信仰 しんこう に依存 いぞん することを促 うなが す」のであり、それゆえに理性 りせい の訴 うった えを軽視 けいし することがある。[ 3] 信仰 しんこう 主義 しゅぎ 者 しゃ はとりわけ真実 しんじつ を探求 たんきゅう する。そして理性 りせい はある種 しゅ の真実 しんじつ には到達 とうたつ し得 え ず、それらの真実 しんじつ には信仰 しんこう をもってのみたどり着 つ くことができると主張 しゅちょう する。
主 おも な記事 きじ :宗教 しゅうきょう と科学 かがく
テルトゥリアヌス「不合理 ふごうり なるがゆえに我 わが 信 しんじ ず」[ 編集 へんしゅう ]
Credo quia absurdum (英 えい : I believe because it is absurd 日 ひ : 不合理 ふごうり なるがゆえに我 わが 信 しんじ ず)という言葉 ことば は、しばしばテルトゥリアヌス のものであるとされる。しかしこれは、テルトゥリアヌスのDe Carne Christi (キリストの肉 にく について)からの誤 あやま った引用 いんよう であると考 かんが えられる。[ 4] テルトゥリアヌスが実際 じっさい に記 しる したことは、「神 かみ の子 こ は死 し んだ。それは信 しん じるほかない、なぜなら、それは不合理 ふごうり であるからだ。」[ 5]
パスカル
パスカル によっても、信仰 しんこう 主義 しゅぎ が唱 とな えられた。パスカルは信仰 しんこう について考 かんが える無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ に対 たい して、神 かみ への信仰 しんこう を潜在 せんざい 的 てき な報酬 ほうしゅう を持 も ち合 あ わせた無償 むしょう の選択 せんたく であるとみなすことを勧 すす めた。 パスカルは神 かみ が実際 じっさい に存在 そんざい するかどうかは問題 もんだい にせず、神 かみ の存在 そんざい を真実 しんじつ であると想定 そうてい することに価値 かち があるかどうかについて述 の べた。無論 むろん 、パスカルの議論 ぎろん は特定 とくてい の神 かみ に制限 せいげん されたものではないが、彼 かれ 自身 じしん はキリスト教 きりすときょう の神 かみ を前提 ぜんてい としていた。以下 いか 、そのことが述 の べられている文章 ぶんしょう を、彼 かれ の著作 ちょさく であるパンセ より引用 いんよう する。
信念 しんねん の
理由 りゆう を
説明 せつめい できないからといってそれで
一体 いったい 誰 だれ が
キリスト教徒 きりすときょうと を
非難 ひなん できるというのか、
彼 かれ らは
自身 じしん の
説明 せつめい できない
宗教 しゅうきょう における
信念 しんねん を
告白 こくはく しているのだ。
キリスト教徒 きりすときょうと が
自 みずか らの
信念 しんねん を
世 よ に
向 む けて
事細 ことこま かに
説明 せつめい したというのに、
人々 ひとびと はそれを"
馬鹿 ばか げていること"(
羅 ら :
stultitiam )だと
言 い う;
証明 しょうめい できないからといって、
不平 ふへい をこぼすのか!もし
キリスト教徒 きりすときょうと がそれを
説明 せつめい できてしまうなら、
彼 かれ らは
有 ゆう 口 こう 無 む 行 くだり になってしまうだろう;
彼 かれ らが
思慮 しりょ 分別 ふんべつ のあるのを
示 しめ すのは、それが
証明 しょうめい できないものであるからだ。
—パンセ, no.233
パスカルはさらに、神 かみ の存在 そんざい を示 しめ す様々 さまざま な証明 しょうめい に関 かん して見当 けんとう 違 ちが いであるとして異議 いぎ を唱 とな えた。もし証明 しょうめい が正 ただ しいとしても、証明 しょうめい のために提示 ていじ された存在 そんざい が伝統 でんとう 的 てき に信仰 しんこう 対象 たいしょう であった神 かみ とそぐわず、啓示 けいじ 宗教 しゅうきょう ではなく理 り 神 かみ 論 ろん へとつながってしまうのである。[ 7]
^ Plantinga, Alvin (1983). "Reason and Belief in God" in Alvin Plantinga and Nicholas Wolterstorff (eds.), Faith and Rationality: Reason and Belief in God , page 87. (Notre Dame: University of Notre Dame Press).
^ Vainio, Olli-Pekka (2010). Beyond Fideism: Negotiable Religious Identities . Transcending boundaries in philosophy and theology. Ashgate. p. 25. ISBN 978-1-40940679-2 . https://books.google.co.jp/books?id=tyTSs_dqwkcC&redir_esc=y&hl=ja
^ Tertullian, On the Flesh of Christ , Fathers, New Advent, http://www.newadvent.org/fathers/0315.htm .
^ Pascal, Blaise (1854) (French), Pensées [Thoughts] , Paris: Charles Louandre, p. 40 .