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信仰しんこう主義しゅぎ

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信仰しんこう主義しゅぎ (えい: Fideism)は、信仰しんこう理性りせい独立どくりつしたものであるという認識にんしきろん理論りろんである。信仰しんこう理性りせい相反あいはんするものであり、特定とくてい真実しんじつにたどりくためには信仰しんこうほう重要じゅうようであると主張しゅちょうされる。[1]

概説がいせつ

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アルバン・プランティンガ英語えいごばん信仰しんこう主義しゅぎを、「信仰しんこうのみへの排他はいたてきあるいは基本きほんてき依存いぞんであり、その結果けっか理性りせい軽視けいしされることとなり、とりわけ哲学てつがくてきあるいは宗教しゅうきょうてき真実しんじつ追究ついきゅうするために利用りようされる」とべている。信仰しんこう主義しゅぎしゃはそれゆえに「哲学てつがくてき宗教しゅうきょうてき事柄ことがらにおいては、理性りせいよりも信仰しんこう依存いぞんすることをうながす」のであり、それゆえに理性りせいうったえを軽視けいしすることがある。[3]信仰しんこう主義しゅぎしゃはとりわけ真実しんじつ探求たんきゅうする。そして理性りせいはあるしゅ真実しんじつには到達とうたつず、それらの真実しんじつには信仰しんこうをもってのみたどりくことができると主張しゅちょうする。[2]

歴史れきし

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おも記事きじ宗教しゅうきょう科学かがく

テルトゥリアヌス「不合理ふごうりなるがゆえにわがしんじず」

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Credo quia absurdum (えい: I believe because it is absurd : 不合理ふごうりなるがゆえにわがしんじず)という言葉ことばは、しばしばテルトゥリアヌスのものであるとされる。しかしこれは、テルトゥリアヌスのDe Carne Christi (キリストのにくについて)からのあやまった引用いんようであるとかんがえられる。[4]テルトゥリアヌスが実際じっさいしるしたことは、「かみんだ。それはしんじるほかない、なぜなら、それは不合理ふごうりであるからだ。」[5]

パスカルと信仰しんこう主義しゅぎ

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パスカル

パスカルによっても、信仰しんこう主義しゅぎとなえられた。パスカルは信仰しんこうについてかんがえるかみろんしゃたいして、かみへの信仰しんこう潜在せんざいてき報酬ほうしゅうわせた無償むしょう選択せんたくであるとみなすことをすすめた。[6] パスカルはかみ実際じっさい存在そんざいするかどうかは問題もんだいにせず、かみ存在そんざい真実しんじつであると想定そうていすることに価値かちがあるかどうかについてべた。無論むろん、パスカルの議論ぎろん特定とくていかみ制限せいげんされたものではないが、かれ自身じしんキリスト教きりすときょうかみ前提ぜんていとしていた。以下いか、そのことがべられている文章ぶんしょうを、かれ著作ちょさくであるパンセより引用いんようする。

信念しんねん理由りゆう説明せつめいできないからといってそれで一体いったいだれキリスト教徒きりすときょうと非難ひなんできるというのか、かれらは自身じしん説明せつめいできない宗教しゅうきょうにおける信念しんねん告白こくはくしているのだ。キリスト教徒きりすときょうとみずからの信念しんねんけて事細ことこまかに説明せつめいしたというのに、人々ひとびとはそれを"馬鹿ばかげていること"(: stultitiam)だとう;証明しょうめいできないからといって、不平ふへいをこぼすのか!もしキリスト教徒きりすときょうとがそれを説明せつめいできてしまうなら、かれらはゆうこうくだりになってしまうだろう;かれらが思慮しりょ分別ふんべつのあるのをしめすのは、それが証明しょうめいできないものであるからだ。
パンセ, no.233

パスカルはさらに、かみ存在そんざいしめ様々さまざま証明しょうめいかんして見当けんとうちがいであるとして異議いぎとなえた。もし証明しょうめいただしいとしても、証明しょうめいのために提示ていじされた存在そんざい伝統でんとうてき信仰しんこう対象たいしょうであったかみとそぐわず、啓示けいじ宗教しゅうきょうではなくかみろんへとつながってしまうのである。[7]

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ Amesbury 2005.
  2. ^ a b Amesbury 2005, section 1.
  3. ^ Plantinga, Alvin (1983). "Reason and Belief in God" in Alvin Plantinga and Nicholas Wolterstorff (eds.), Faith and Rationality: Reason and Belief in God, page 87. (Notre Dame: University of Notre Dame Press).[2]
  4. ^ Vainio, Olli-Pekka (2010). Beyond Fideism: Negotiable Religious Identities. Transcending boundaries in philosophy and theology. Ashgate. p. 25. ISBN 978-1-40940679-2. https://books.google.co.jp/books?id=tyTSs_dqwkcC&redir_esc=y&hl=ja 
  5. ^ Tertullian, On the Flesh of Christ, Fathers, New Advent, http://www.newadvent.org/fathers/0315.htm .
  6. ^ Geisler 1976, p. 49.
  7. ^ Pascal, Blaise (1854) (French), Pensées [Thoughts], Paris: Charles Louandre, p. 40 .