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内ヶ崎うちがさき康治こうじ

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内ヶ崎うちがさき 康治こうじ(うちがさき こうじ、1903ねん12月8にち[1][2] - 1975ねん9月2にち[3])は、日本にっぽん政治せいじ宮城みやぎけん富谷とみやまちちょう(3)。

来歴らいれき

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宮城みやぎけん黒川くろかわぐん富谷とみやむら(のち富谷とみやまちげん富谷とみや出身しゅっしん[2]宮城みやぎけん師範しはん学校がっこうそつ[1][2]吉岡よしおかしょう大衡おおひらしょう訓導くんどうとなり[2]戦時せんじちゅうけん関係かんけいしょ団体だんたい要職ようしょくつとめた[2]

戦後せんご1951ねん富谷とみや村議そんぎ会議かいぎいん当選とうせん[2]翌年よくねん富谷とみやむら教育きょういくちょうとなり[2]1955ねん富谷とみや村長そんちょう選挙せんきょ投票とうひょう当選とうせんした[2]

富谷とみやむら昭和しょうわだい合併がっぺいれたが、結局けっきょくむら単独たんどくのこ選択せんたくをした。そのためむら財政ざいせいめん困難こんなん状態じょうたいおちいった[2]。このようななか中学校ちゅうがっこう体育館たいいくかん音楽おんがくしつ設置せっち町営ちょうえい住宅じゅうたく建設けんせつ工場こうじょう誘致ゆうちなど、むら発展はってんちからくした[3]

これらの努力どりょくむすび、むら人口じんこう増加ぞうかてんじ、1963ねん町制ちょうせい施行しこうとなった。内ヶ崎うちがさき初代しょだい町長ちょうちょうとなり、1967ねんまでつとめた。

1975ねん72さい死去しきょ地方ちほう自治じち功労こうろうにより、くんとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょうした[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 日本にっぽん歴代れきだい町村ちょうそんちょうだい1かん、529ぺーじ
  2. ^ a b c d e f g h i しんてい 富谷とみやまち』932ぺーじ
  3. ^ a b c しんてい 富谷とみやまち』933ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかいへん日本にっぽん歴代れきだい町村ちょうそんちょうだい1かん歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかい、1989ねん
  • 富谷とみやまちへんさん委員いいんかいへんしんてい 富谷とみやまち富谷とみやまち、1995ねん