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北村きたむらそうりゅう

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北村きたむら そうりゅう(きたむら そうりゅう、天文てんもん21ねん1552ねん) - 寛永かんえい20ねん1643ねん))は、江戸えど時代じだい初期しょき医師いし連歌れんが近江おうみこく出身しゅっしん北村きたむら季吟きぎん祖父そふ[1]

生涯しょうがい

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天文てんもん21ねん(1552ねん近江おうみこく野洲やすぐん北村きたむらげん滋賀しがけん野洲やす)に、北村きたむらただしよりゆきつまだに権右衛門ごんうえもんむすめとのあいだ三男さんなんとして誕生たんじょうし、通称つうしょうそう三郎さぶろうじょあんともごうした[2][1]曲直瀬まなせ道三どうさんまなび、連歌れんが里村さとむら紹巴じょうはおしえをけた[2][1]曲直瀬まなせ道三どうさん推挙すいきょにより毛利もうり元就もとなりはちなん元康もとやす侍医じいとなり、一時いちじ毛利もうりより300せきろくたまわった[2][1]

北村きたむらもどり、医業いぎょうかたわらで永原ながはら天神てんじん連歌れんが宗匠そうしょうとして野洲やすぐん一体いったい連歌れんが指導しどうつとめた。永原ながはら天神てんじんたてひさ元年がんねん1190ねんみなもと頼朝よりとも上京じょうきょうさい連歌れんが奉納ほうのうおこなったことから、連歌れんがとの関連かんれんつよく、えいろく元年がんねん1558ねん今川いまがわ義元よしもとせん句会くかい興行こうぎょうおこなった。また、江戸えど時代じだいには天領てんりょう代官だいかん出席しゅっせきうえ正月しょうがつ13にちに「じゅううめせん」を社前やしろまえ奉納ほうのうすることがならわしとされていた[2]

晩年ばんねん連歌れんがちゃたのしみ寛永かんえい20ねん(1643ねん死去しきょし、法名ほうみょういしこころそうりゅう居士こじ医家いか永原ながはら天神てんじん連歌れんが宗匠そうしょう長男ちょうなん北村きたむらはじめあずかぎ、次男じなん宗円そうえんきょうにおいて生業せいぎょうとした。北村きたむら季吟きぎん宗円そうえん嫡男ちゃくなんとされる[2][1]。なお、そうりゅうつま長束ながつかただしむすめ寛永かんえい18ねん(1641ねん死去しきょした。そうりゅうあに北村きたむらただしあきらりゅうより儒学じゅがくしゃ北村きたむらあきらまれる。

家族かぞく

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祖父そふ北村きたむらみやび
ちち北村きたむら太郎たろうみぎ衛門えもんじょうせいよりゆき
ははたに権右衛門ごんうえもんむすめ
あにせいあきら
叔父おじ北村きたむらただしやすし正信まさのぶ秀正ひでまさせいひとし
つま長束ながつかただしむすめ
長男ちょうなん北村きたむらはじめあずか - 継子けいし北村きたむらはじめゆきむすめ婿むこ
次男じなん北村きたむらはじめえん - 嗣子しし北村きたむら季吟きぎん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 漢方かんぽう臨床りんしょう 34(12)(400)」 P52「北村きたむらはじめりゅうをめぐる曲直瀬まなせ道三どうさん関係かんけい資料しりょう 大谷おおや雅彦まさひこ」(東亜とうあ医学いがく協会きょうかい 1987ねん
  2. ^ a b c d e うずもれていた近江おうみきよし 北村きたむらそうりゅう」(ふとしたに雅彦まさひこへん 野洲やす 1986ねん