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北村きたむら季吟きぎん

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北村きたむら季吟きぎん

北村きたむら 季吟きぎん(きたむら きぎん、寛永かんえい元年がんねん12月11にち1625ねん1がつ19にち) - 宝永ほうえい2ねん6月15にち1705ねん8がつ4にち))は、江戸えど時代じだい前期ぜんき歌人かじん俳人はいじん和学わがくしゃしずかあつ通称つうしょう久助きゅうすけさいあきらいんべつごうおもんばかあんりょあんなな松子まつこじつのき月亭つきてい

経歴けいれき[編集へんしゅう]

出身しゅっしん近江おうみこく野洲やすぐん北村きたむら現在げんざい滋賀しがけん野洲やす)。祖父そふそうりゅうちち宗円そうえんいで医学いがくおさめた。

はじめ俳人はいじん安原やすはら貞室ていしつに、ついで松永まつなが貞徳さだのりについて俳諧はいかいまなび、『やま』の刊行かんこうさだ門派もんぱ俳諧はいかい新鋭しんえいといわれた。飛鳥井あすかい雅章まさあき清水谷しみずだに実業じつぎょう和歌わか歌学かがくまなんだことで、『土佐とさ日記にっきしょう』、『伊勢物語いせものがたりひろえしょう』、『源氏物語げんじものがたりみずうみがつしょう』などの注釈ちゅうしゃくしょをあらわし、元禄げんろく2ねん1689ねん)には歌学かがくかたとして500せきにて子息しそくみずうみはるとも幕府ばくふつかえた。以後いご北村きたむら幕府ばくふ歌学かがくかた世襲せしゅうした。

俳諧はいかいさだ門派もんぱいきなかったが、『しんぞくいぬ筑波つくばしゅう』、『ぞく連珠れんじゅ』、『季吟きぎんじゅうかいしゅう』の撰集せんしゅう式目しきもくしょ埋木うめき(うもれぎ)」、句集くしゅう「いなご」は特筆とくひつされる。山岡やまおかもととなり松尾まつお芭蕉ばしょう山口やまぐち素堂そどうなどすぐれた門人もんじん輩出はいしゅつしている。宝永ほうえい2ねん(1705ねん死去しきょ享年きょうねん82。

大正たいしょう4ねん(1915ねん)、したがえよん追贈ついぞうされた[1]

台東たいとう池之端いけのはたせい慶寺けいじ季吟きぎんはか東京とうきょう史跡しせき)があり、墓石はかいし正面しょうめんに「さいあきらいん法印ほういん季吟きぎん先生せんせい」、墓石はかいし側面そくめんに「はな郭公かっこう(ほととぎす)をもまちでつ この おもふことなき」と辞世じせいきざまれている。

末裔まつえいに、長野ながのけんけん信濃しなのくに』を作曲さっきょくした北村きたむらはれおよびもとサッカー日本にっぽん代表だいひょう数学すうがくしゃ北村きたむら春吉はるきちがいる。

おも著作ちょさく[編集へんしゅう]

おも門人もんじん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.34

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 石倉いしくらしげるつぎ (花笠はながさ主人しゅじん) 『北村きたむら季吟きぎんでん三松みまつどう 1898 クレス出版しゅっぱん、1995  
  • 北村きたむら季吟きぎん著作ちょさくしゅう だい1しゅう (みちさかえ)』北村きたむら季吟きぎん大人おとな遺著いちょ刊行かんこうかい、1962
  • 北村きたむら季吟きぎん註釈ちゅうしゃく集成しゅうせいぜん44かん別巻べっかん6 しんてんしゃ、1976-80 
  • えのきさかひろしなお北村きたむら季吟きぎん論考ろんこう』1996、しんてんしゃ研究けんきゅう叢書そうしょ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]