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千村ちむら五郎ごろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

千村ちむら 五郎ごろう(ちむら ごろう、なま没年ぼつねんしょう[1])は、日本にっぽん英学えいがくしゃ牧師ぼくしである。なかきよしごう健堂けんどう小木曽こぎそ山人さんじん別名べつめい木曽きそ五郎ごろう

生涯しょうがい

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1835ねん天保てんぽう6ねん)から1838ねん天保てんぽう9ねん)のあいだ[2]美濃みのこく可児かにぐん久々利くくりむらげん岐阜ぎふけん可児かに)の旗本はたもと領主りょうしゅ千村ちむらよりゆきひさまごとしてまれる。名古屋なごや伊藤いとう圭介けいすけ師事しじし、田中たなか芳男よしお柳河やなかわ春三しゅんさんらととも蘭学らんがく英学えいがくまなんだ。1860ねん万延まんえん元年がんねん)、幕府ばくふしげるしょ調ちょうしょ英学えいがく句読くとう教授きょうじゅやく任命にんめいされ、詩文しぶん蘭学らんがく研究けんきゅうした。1864ねん元治もとはる元年がんねん)、外国がいこく奉行ぶぎょう横文字よこもじみとめかたやくめいじられ、開成かいせいしょしげるしょ調ちょうしょ後継こうけい)をする。

性格せいかく頑固がんこ片意地かたいじめんがあった。乗馬じょうばこのんでいた。尾張おわり本草学ほんぞうがく研究けんきゅう団体だんたいひゃくしゃ」の同人どうじんであった[2]

明治維新めいじいしんこうみなみはん洋学ようがくしょ英語えいごおしえ、のち英学えいがくじゅく協和きょうわしゃひらいた。このころ門下生もんかせい井深いぶか梶之助かじのすけ都築つづきかおるろくらがいる。1872ねん明治めいじ5ねん)、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくシカゴ留学りゅうがくしたが翌年よくねん病気びょうきのため帰国きこく1874ねん明治めいじ7ねん)にカラゾルス宣教師せんきょうしから洗礼せんれいける。東京とうきょうだいいち長老ちょうろう教会きょうかい長老ちょうろうになった。

また、のちにはひろし教会きょうかい牧師ぼくしになり、日本橋にほんばし呉服ごふくまち講義こうぎしょ(教会きょうかい)の牧師ぼくしをした。1884ねん明治めいじ17ねん)にはハイデルベルク教理きょうり問答もんどう翻訳ほんやくである『鄙語ひごかい徳山とくやま問答もんどう』を発行はっこうする。そのさい渡米とべいするが、帰国きこく中風ちゅうぶになり、東京とうきょう死去しきょした。没年ぼつねん明治めいじ20ねん(1887ねん)とするもの[3]や、1891ねん明治めいじ24ねん)8がつ31にち記録きろくに「木曽きそ五郎ごろう」の名前なまえしるされているものもある[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてん』では1807ねんまれ・1891ねん3月18にち死去しきょとするが、同族どうぞくである尾張おわりはん儒者じゅしゃ千村ちむら峒陽kotobank)と混同こんどうした可能かのうせいがある。
  2. ^ a b c 茂住もずみじつおとこ, 「千村ちむら五郎ごろう-しげるしょ調ちょうしょ最初さいしょ英学えいがく教師きょうし-」『日本にっぽん英語えいご教育きょういく研究けんきゅう』 4かん 1989ねん p.37-57, 日本にっぽん英語えいご教育きょういく学会がっかい,doi:10.11222/hisetjournal1986.4.0_37
  3. ^ 石附いしづきみのる近代きんだい日本にっぽん海外かいがい留学りゅうがく』(ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、1972ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽんキリスト教きりすときょう歴史れきしだい事典じてんきょうぶんかん、1988ねん
  • 早川はやかわいさむへん日本にっぽん英語えいご辞書じしょ編纂へんさんしゃ春風しゅんぷうしゃ、2006ねん