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増永ますなが祐一ゆういち

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増永ますなが 祐一ゆういち
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 鹿児島かごしまけん喜入きいれまちげん鹿児島かごしま
生年月日せいねんがっぴ 1966ねん10がつ4にち
身長しんちょう
体重たいじゅう
180 cm
70 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション 投手とうしゅ
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

増永ますなが 祐一ゆういち(ますなが ゆういち、1966ねん10月4にち-[1])は、鹿児島かごしまけん出身しゅっしん日本にっぽん野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)。

経歴けいれき

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小学生しょうがくせい時代じだい柔道じゅうどう水泳すいえいをしており、喜入きいれ中学校ちゅうがっこう野球やきゅうはじめた。本格ほんかくとして頭角とうかくあらわし、県内けんない鹿児島かごしま商工しょうこう鹿児島かごしま実業じつぎょう鹿児島かごしま商業しょうぎょうからそれぞれ勧誘かんゆうけて鹿児島かごしま商工しょうこう進学しんがく[2]。3ねんなつには鹿児島かごしまけん大会たいかい決勝けっしょう鹿児島かごしま実業じつぎょうを1安打あんだ完封かんぷう[3]全国ぜんこく大会たいかい出場しゅつじょうした。初戦しょせんとなる2回戦かいせん小川おがわ博文ひろぶみをノーヒットにおさえて拓大紅陵たくだいこうりょう完封かんぷう勝利しょうり[4]つづく3回戦かいせん志村しむらあきらとのいをおなじく完封かんぷうせいし、桐蔭学園とういんがくえんくだしている。ベスト8では石田いしだ文樹ふみき吉田よしだつよしようする取手とってだか対戦たいせんし、木内きうち幸男ゆきおによる変化球へんかきゅう対策たいさくもあって12安打あんだびてやぶれた[5]

どう大会たいかいのち高校こうこう日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつされて韓国かんこく遠征えんせい参加さんかし、同年どうねんのドラフト会議かいぎヤクルトから4指名しめいされる。プロ志望しぼうだったこともあって入団にゅうだん前向まえむきだったが、喜入きいれまち石油せきゆ基地きち日本石油にほんせきゆ建内保興けんないほこう社長しゃちょう同社どうしゃ野球やきゅうへの獲得かくとく熱望ねつぼうした。日本石油にほんせきゆ監督かんとく望月もちづきひろしらの説得せっとくやヤクルトのスカウトにたいする不信ふしんかんもあり、3ねんのプロりを条件じょうけん日本石油にほんせきゆ入社にゅうしゃしている[2]

同期どうき入部にゅうぶには金沢かなざわ健一けんいちらがおり、1ねんから活躍かつやく。しかし2ねん1986ねん磯部いそべ史雄ふみお監督かんとく就任しゅうにんすると登板とうばん機会きかい激減げきげんし、打撃だげき投手とうしゅなどをつとめていた[2]1989ねんサイドスロー転向てんこうすると、はやし裕幸ひろゆき監督かんとく就任しゅうにんしたこともあり起用きようされることえた。プロからの指名しめいはなかったが、だい18かい日本にっぽん選手権せんしゅけんだい64かい都市とし対抗たいこうでの優勝ゆうしょうささえ、1993ねん現役げんえき引退いんたい[2]以降いこう社業しゃぎょう専念せんねんしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ かがや甲子園こうしえんほし、1984ねんNo.4、127p
  2. ^ a b c d JX-ENEOS野球やきゅう だい23かい 増永ますなが祐一ゆういち
  3. ^ 朝日新聞あさひしんぶん、1984ねん7がつ25にちづけ朝刊ちょうかん、P.19
  4. ^ 読売新聞よみうりしんぶん、1984ねん8がつ14にちづけ朝刊ちょうかん、P.12
  5. ^ 読売新聞よみうりしんぶん、1984ねん8がつ20にちづけ朝刊ちょうかん、P.16

関連かんれん項目こうもく

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