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夜嵐よあらしおきぬ

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原田はらだきぬ(はらだ きぬ、生年せいねんしょうひろし元年がんねん1844ねんせつ - 明治めいじ5ねん2がつ20日はつか1872ねん3月28にち))は、幕末ばくまつから明治めいじ初期しょき実在じつざいした女性じょせい死刑しけいしゅう毒殺どくさつはん)。

彼女かのじょをベースとしてまれた新聞しんぶん錦絵にしきえひとしにおける登場とうじょう人物じんぶつおよ後年こうねん製作せいさくされた映画えいが作品さくひんのタイトルが『夜嵐よあらしよあらしおきぬ』である。

原田はらだきぬ本人ほんにんについては処刑しょけいとき発行はっこうされた『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』が資料しりょうとしてあるが[1]正確せいかく資料しりょうすくない。夜嵐よあらしおきぬの物語ものがたり現実げんじつ原田はらだきぬのそれというよりは、それに脚色きゃくしょくくわえたフィクションである。木下きのした直之なおゆき夜嵐よあらしおきぬの物語ものがたりについて「物語ものがたり画像がぞうかならずしもキヌの事件じけんかならずしも内在ないざいする必要ひつようはなく、戯作げさくしゃ絵師えし判断はんだんゆだねられる」とべている[2]

夜嵐よあらし異名いみょうは、おきぬ処刑しょけいさいんだとされる辞世じせい夜嵐よあらしのさめてあとなしはなゆめ」からきている。

ストーリー[編集へんしゅう]

1844ねんあるいはひろし年間ねんかん前後ぜんご時代じだいに、三浦半島みうらはんとう城ヶ島じょうがしま漁師りょうし佐次郎さじろうむすめ[ちゅう 1]としてまれた。彼女かのじょは16さいのときに両親りょうしん死別しべつし、伯父おじられ江戸えど芸妓げいぎになることになり「尾張おわり」において「鎌倉かまくら小春こはる」と名乗なのりその美貌びぼうから江戸えどちゅう評判ひょうばん[ちゅう 2]

そのとき、大久保おおくぼたすく渡守わたしもり下野げやこく那須なすぐん烏山からすやまはんさんまんせき城主じょうしゅ)に見初みそめられ、黒沢くろさわげんたち日本橋にほんばし医者いしゃ)を仮親かりおやとし、大久保おおくぼ御部屋様おへやさま側室そくしつ)となり、花代はなだいあらためた。安政あんせい4ねん1857ねん)、世継よつぎの春若はるわかんだが、その7ねん渡守わたしもりが44さい死去しきょした。

花代はなだい当時とうじ慣例かんれいしたがって仏門ぶつもんはいりることになり、を「つきいん」とあらため、おっと冥福めいふくいの生活せいかつはいったが、これはなか強制きょうせいされたもので、しん信仰しんこうしんからはいったのではなかったので、そのような生活せいかつには馴染なじめず、やがてうつ状態じょうたいになり、すすめるひとがあって箱根はこね転地てんち療法りょうほうかけることになった。

同所どうしょで「いま業平なりひら」の異名いみょう日本橋にほんばし呉服ごふくしょう紀伊国屋きのくにやせがれ角太郎かくたろう出会であうことになり、やがてにんこいちた。江戸えどもどったのちにん関係かんけいつづき、角太郎かくたろうがきぬのもとかよ生活せいかつはじまった[3]。だが、そのような禁断きんだんこいゆるされるはずもなく、やがてその乱行らんぎょう不行跡ふぎょうせき大久保おおくぼるところとなり、きぬは同家どうけから追放ついほうされた。その角太郎かくたろう縁談えんだんがり、かれあしはおきぬからとおざかっていった[3]

そのきぬはもと芸者げいしゃ生活せいかつもどることになった。戊辰戦争ぼしんせんそうとききゅう幕府ばくふ鷹匠たかじょうであり、その金貸かねかぎょう生業せいぎょうとしていた東京とうきょう士族しぞく小林こばやし金平きんぺいが、明治めいじ2ねんおきぬを身請みうけした。そしてかれ浅草あさくさ歌舞伎かぶきさん付近ふきんさるわかまち妾宅しょうたくもうけおきぬをまわすことにした。小林こばやしはきぬを溺愛できあいし、彼女かのじょもとめるものならなんでもあたえた。

彼女かのじょ歌舞伎かぶき役者やくしゃの璃鶴(「璃鶴」はさん代目だいめあらし璃珏俳名代目だいめ市川いちかわ権十郎ごんじゅうろう)との役者やくしゃ[ちゅう 3]にのめりみ、恋人こいびととの結婚けっこんねがい、障害しょうがいとなる旦那だんなである小林こばやし金平きんぺい殺鼠剤さっそざい毒殺どくさつした。

逮捕たいほ裁判さいばんにかけられたとき、彼女かのじょ妊娠にんしんしており、死刑しけい判決はんけつけたのち出産しゅっさんまでけい執行しっこう延期えんきされ、小塚原こづかはら刑場けいじょう処刑しょけいされた。当時とうじ近代きんだい刑法けいほう確立かくりつしておらず、断頭だんとうのちさん日間にちかん梟首きょうしゅしょせられた[1]執行しっこうさいのこした辞世じせい夜嵐よあらしのさめてあとなしはなゆめ」から、きぬは「夜嵐よあらしおきぬ」と渾名あだなばれるようになったと物語ものがたりじょうはなっているが、実際じっさいのキヌは辞世じせいのこしてはいないという[4]不義ふぎ密通みっつうたいするつみで璃鶴は懲役ちょうえき3ねんだった。

なお、蜂巣はちすあつし大久保おおくぼ忠美ただみがおきぬわらわにしたが世継よつぎがまれたのでてたところ、その放浪ほうろうさき殺人さつじん事件じけんこしたのだとこの事件じけん顛末てんまつ記述きじゅつしている[5]

原田はらだキヌのはか東京とうきょう墨田すみだ東駒形ひがしこまがた3丁目ちょうめ21番地ばんち赤門あかもんぶくいわおてらにある[6]

フィルモグラフィ[編集へんしゅう]

この事件じけん当時とうじセンセーションをこし「毒婦どくふ夜嵐よあらしおきぬ」事件じけんとしてられることになった。きぬの処刑しょけい10ねんたぬうちに岡本おかもと起泉きせんが『夜嵐よあらしおもねころもはな廼仇ゆめ』(1878ねん - 1880ねん)として小説しょうせつしている。さらに後年こうねん映画えいが主題しゅだいとなった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ このほか、房州ぼうしゅう下級かきゅう武士ぶしせつや、江戸えどまれというせつ存在そんざいする[1]。| 田村たむら栄太郎えいたろう ちょ妖婦ようふ列伝れつでん』(1960ねん雄山閣ゆうざんかく)には「(前略ぜんりゃくちち大助おおすけといい、徳川とくがわ幕府ばくふ旗本はたもと若林わかばやしたすく渡守わたしもり家来けらいであったが、若林わかばやしって小川おがわまち都築つづき長三郎ちょうさぶろうつかえたが、このいえ退しりぞいたということである。若林わかばやしったのは、ひろしさんねんいちはちよんろくねん)で、おきぬさんさいときである。都築つづきったのは安政あんせいねんいちはちはちねん)であって、おきぬじゅうろくさいになっていた。大助だいすけはこれからは檜物ひものまち、つぎにゆみまちというように転宅てんたくしていたが、同年どうねん両親りょうしんともに歿したので、駿河台するがだい鈴木すずきまち竹内たけうち下野げやもり家来けらいで、叔父おじにあたる原田はらだ周平しゅうへいもと世話せわになったという」とある。
  2. ^ 浅草寺せんそうじゆか見世みせ現在げんざい浅草あさくさ仲見世なかみせどお)の半襟はんえりてん従業じゅうぎょういんというせつもあるアーカイブされたコピー”. 2006ねん6がつ23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2007ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  3. ^ 役者やくしゃ当時とうじ有閑ゆうかん女性じょせいにおいてなか黙認もくにんされていた遊興ゆうきょうであった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん明治めいじ5ねん2がつ22にちだい3ごう
  2. ^ 小野おの秀雄ひでおコレクション再考さいこう”. 東京大学とうきょうだいがく総合そうごう研究けんきゅう博物館はくぶつかん. 2008ねん12月15にち閲覧えつらん
  3. ^ a b [2]
  4. ^ 明治めいじひゃくじょう・p.32
  5. ^ 夜嵐よあらしきぬ”. 蜂巣はちすあつしのページ. 2007ねん8がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2008ねん12月15にち閲覧えつらん
  6. ^ 宮下みやした[2014:191-192]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

底本ていほん - 岡本おかもとかんづくりへん芳川よしかわ俊雄としお閲『夜嵐よあらしおもねころもはな廼仇ゆめ』、金松かねまつどう、1878ねん - 1880ねん

関連かんれん事項じこう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]