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大伴おおともだん

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大伴おおともだん
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 雄略天皇ゆうりゃくてんのう9ねん465ねん)3がつ
別名べつめい かたり
主君しゅくん 雄略天皇ゆうりゃくてんのう
氏族しぞく 大伴おおともれんかみべつ天神てんじん))
父母ちちはは ちち大伴室屋おおとものむろやおとうとせつあり)
金村かなむら
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大伴おおとも だん(おおとも の かたり)は、古代こだい日本にっぽん将軍しょうぐんかたりとも表記ひょうきする。せいカバネ)はれん大伴室屋おおとものむろや一説いっせつにはおとうと)。金村かなむらがいる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

雄略ゆうりゃくあさたいしん派遣はけんぐん大将たいしょう雄略天皇ゆうりゃくてんのう9ねん465ねん)3がつ天皇てんのういのちほうじてきのしょうゆみ蘇我そがかん小鹿こじか宿禰すくねしょうともしんった。しんおう慈悲じひあさりつすうひゃく手勢てぜい遁走とんそう、それを追撃ついげきてきしょうるもざんへい降伏ごうぶくせず、だんしょうゆみともたたかったが、そのよる戦死せんしした[1]

また、その従者じゅうしゃ麻呂まろだんれんてきころされたとき「主人しゅじんんだのにきていても仕方しかたがない」とふたたてきちゅうんだという[1]

新撰しんせん姓氏せいしろく左京さきょうかみべつなかによれば、だんちち一説いっせつにはあに)の室屋むろやとも衛門えもん左右さゆうぶんまもるしたと記述きじゅつされ、またおなじく右京うきょうかみべつじょうによれば佐伯さえきたてまつづく(さえきのひまつりのみやつこ)は大伴おおともてんにんいのち後裔こうえい氏族しぞく)とどうで、だん後裔こうえいとされる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 日本書紀にほんしょきまき14

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]