孝徳たかのりあきら皇后こうごう

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孝徳たかのりあきら皇后こうごう(こうとくけんこうごう、まんしゅう: ᡥᡳᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
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 転写てんしゃ:hiyoošungga erdemu iletu hūwangheo、1831ねん4がつ12にち - 1850ねん1がつ24にち)は、きよし咸豊みかど最初さいしょ正室せいしつ即位そくいまえぼっした)。まんしゅう鑲黄はた出身しゅっしんせいサクダ(Sakda hala、薩克たち)。

孝徳たかのりあきら皇后こうごう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ふとつねてらしょうきょうのフタイ(とみやすし)のむすめみちこう27ねん(1847ねん)、奕詝(の咸豊みかど)にとつぎ、嫡福すすむ正室せいしつ)となった。みちこう29ねん12月おつ(1850ねん1がつ24にち)、薨去こうきょした。子供こどもはなかった。

翌月よくげつみちこう30ねん正月しょうがつ、1850ねん)、咸豊みかど即位そくいすると、皇后こうごう追贈ついぞうされ、「孝徳たかのり」とおくりなされた。おっとおくりなかさねて孝徳たかのりゆたかめぐみまことじゅん慈荘つとむまき徽懿きょうてんさんせいあらわ皇后こうごうおくりなされた。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]