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はじめみき

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はじめ みき(もう かん、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだいから西にしすすむにかけての武将ぶしょうしょくかん西にしすすむつかえた。

生涯しょうがい

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しょくかんつかやすみなみ将軍しょうぐん霍弋したきばもんしょうつとめていた。しょくかん滅亡めつぼうすると霍弋にしたがたかし降伏ごうぶくした。咸熙元年がんねん264ねん)、交阯ぐん吏のりょきょうたいして反乱はんらんこすと、交州刺史しし任命にんめいされていた霍弋はりょきょう救援きゅうえんのためにうまとおる楊稷もうらととも出陣しゅつじんした。霍弋の計略けいりゃくしたがい楊稷・もう炅・ただしもとおうもとらととも水陸すいりくから進軍しんぐんして交州を平定へいていし、派遣はけんしただいとくおさむそく・交州刺史ししりゅうしゅんさんやぶり、さらに古城こじょうにおいてそのくびった。さらにすうにわたり交州しょぐんんだ。おそれかんぐん薛珝みなみ将軍しょうぐんだいとくとう蒼梧そうご太守たいしゅにんじ、楊稷をふせがせた。分水ぶんすい戦闘せんとうとなってすえ璜をやぶり、配下はいか将軍しょうぐんにんった。

霍弋がくなると、やすしはじめ7ねん271ねんはるまごだいとく薛珝・交州刺史ししすえひきいる10まん大軍たいぐんを交阯に派遣はけんした。楊稷はもう炅・はじめだけらにこれをふせがせるも、ふうけいにおいて戦闘せんとうになり衆寡しゅうかてきせず敗北はいぼくした。かれらはわずかなへいとともに交阯にもどり、しろかためた。かつて霍弋は「賊軍ぞくぐん包囲ほういされてひゃくにち未満みまん降伏ごうぶくしたもの家族かぞく処刑しょけいする。ひゃくにち以上いじょうして援軍えんぐん到着とうちゃくしなかったならばわたしつみけよう」とかたっていたが、城内きうちひゃくにちたずして兵糧ひょうろうそこき、降伏ごうぶくもうた。すえ璜はそれをゆるさずに兵糧ひょうろうあたえてまでまもらせた。しょしょうがこれをいぶかしがると、とう璜は「霍弋はすでに死亡しぼうしており、楊稷らを救援きゅうえんすることができない。まず期日きじつたし、それから降伏ごうぶくれてやれば、かれらはつみこうむることがなく、てることになる。うちきには百姓ひゃくしょうへの教育きょういくになり、そときには隣国りんごく懐柔かいじゅうすることになるのだ」とった。期日きじつになって食糧しょくりょうそこき、援軍えんぐん到着とうちゃくしなかったので、とう璜にあらためて降伏ごうぶくした[1]

とう璜はらえたはじめみき・爨能・まつらをけんぎょう護送ごそうした。到着とうちゃくしたはじめみきらをまご晧はころそうとした。あるひとが「かれらは職務しょくむ忠実ちゅうじつですから、赦免しゃめんして国境こっきょうてきしょう手本てほんにすべきです」とすすめたので、まご晧はその意見いけんをききいれてかれらを臨海りんかいまわせた。

はじめみきらは北方ほっぽうかえりたいとねがっていたので、はるか東方とうほうへと移住いじゅうさせられるのが不安ふあんになった。そこで、人々ひとびとしょくたけせいいしゆみ愛用あいようしていることにけ、我々われわれいしゆみ制作せいさくけていると言上ごんじょうした。まご晧はかれらをけんぎょういていしゆみつく部署ぶしょもうけたが、はじめみき洛陽らくようげ、のこされた爨能・まつらは処刑しょけいされた。そのはじめみき討伐とうばつ計略けいりゃく上表じょうひょうしたので、司馬しばえん手厚てあつ褒美ほうびあたえて日南にちなん太守たいしゅてた。以降いこう経歴けいれき不明ふめいである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 華陽かようこくこころざし』と『すすむしょ』では落城らくじょう経緯けいいことなり、兵糧ひょうろう欠乏けつぼうしてしろへい大半たいはん疫病えきびょうにかかり、交阯じん広野こうや将軍しょうぐんおうやく反乱はんらんこしてくれぐんまねれたため、楊稷らは捕虜ほりょになったとある。

参考さんこう文献ぶんけん

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