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宮下みやした正彦まさひこ

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宮下みやした 正彦まさひこ
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 東京とうきょう江戸川えどがわ
生年月日せいねんがっぴ (1962-05-19) 1962ねん5月19にち
ぼつ年月日ねんがっぴ 2008ねん(46さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
170 cm
78 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき ひだりとうひだり
ポジション 外野がいやしゅ
プロ 1986ねん ドラフトがい
はつ出場しゅつじょう 1987ねん10がつ22にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1991ねん4がつ29にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

宮下みやした 正彦まさひこ(みやした ただひこ、1962ねん5月19にち - 2008ねんなつごろ)は、東京とうきょう江戸川えどがわ出身しゅっしんプロ野球やきゅう選手せんしゅ外野がいやしゅ)。1990ねんから1991ねんまでの登録とうろくめいは「宮下みやした 嗣朗」(みやした しろう)。

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

東海大相模とうかいだいさがみだかでは中堅ちゅうけんしゅリードオフマンとして活躍かつやく、2ねんなつけん大会たいかいでは投手とうしゅとして登板とうばんもしている。1979ねん秋季しゅうき関東かんとう大会たいかいすすむが1回戦かいせん君津きみつしょう惜敗せきはいよく1980ねん春季しゅんき関東かんとう大会たいかい決勝けっしょう進出しんしゅつするが愛甲あいこうたけしのいた横浜よこはまだか敗退はいたい同年どうねんなつ神奈川かながわ大会たいかいでも有力ゆうりょくされたが、3回戦かいせん三浦みうらだかとの試合しあいちゅう不祥事ふしょうじがあり、以後いご出場しゅつじょう辞退じたい高校こうこう同期どうき右翼うよくしゅ・4ばん打者だしゃ長谷川はせがわ国利くにとしがいる。

長谷川はせがわとともに東海大とうかいだい進学しんがくするも中退ちゅうたい。その社会しゃかいじん野球やきゅういすゞ自動車ずじどうしゃて、1986ねんオフにドラフトがい横浜よこはま大洋たいようホエールズ入団にゅうだん新人しんじんであった1987ねん3月28にちよる同僚どうりょう3にん竹田たけだひかりくん武田たけだやすし長谷川はせがわ国利くにとし)とともに、神奈川かながわけん横須賀よこすかうち飲酒いんしゅしてタクシーで球団きゅうだん合宿がっしゅくしょ横須賀よこすか長浦ながうら)へかえ途中とちゅう竹田たけだ武田たけだりょうとともに一般人いっぱんじんへの暴行ぼうこう事件じけんこしたとして、横須賀よこすか警察けいさつしょ傷害しょうがい容疑ようぎ調しらべられ[ちゅう 1][2]球団きゅうだんから期限きげん謹慎きんしん処分しょぶんけた[3]1991ねんシーズンオフに大洋たいよう退団たいだん[4]同年どうねんのシーズンかぎりで現役げんえき引退いんたい

2008ねんなつ肝臓かんぞうがんのため46さいというわかさで逝去せいきょ[5][6]次男じなん正彦まさひこ死後しご2010ねんだい92かい全国ぜんこく高等こうとう学校がっこう野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかいなつ甲子園こうしえん)に関東かんとうだいいち高校こうこう選手せんしゅ(3年生ねんせい)として出場しゅつじょう[ちゅう 2][6]

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1987 大洋たいよう 1 1 1 0 1 0 1 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1.000 1.000 3.000 4.000
1988 10 5 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .000 .250 .000 .250
1989 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1990 5 7 7 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .143 .143 .143 .286
1991 6 4 3 0 1 0 0 0 1 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 .333 .500 .333 .833
通算つうさん:5ねん 23 17 15 1 3 0 1 0 5 0 0 1 0 0 2 0 0 6 0 .200 .294 .333 .627

記録きろく[編集へんしゅう]

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 46 (1987ねん - 1991ねん

登録とうろくめい[編集へんしゅう]

  • 宮下みやした 正彦まさひこ (みやした ただひこ、1987ねん - 1989ねん
  • 宮下みやした 嗣朗 (みやした しろう、1990ねん - 1991ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ なお、どう事件じけんについて横浜よこはま地検ちけん横須賀よこすか支部しぶ竹田たけだ宮下みやした武田たけだの3めい傷害しょうがいおよび器物きぶつ破損はそん容疑ようぎ調しらべたが、3にん被害ひがいしゃとのあいだ示談じだん成立せいりつしたことや、被害ひがいしゃ怪我けがかるかったこと、3にんとも反省はんせいしていることなどから、同年どうねん5がつ8にちづけで3にん起訴きそ猶予ゆうよ処分しょぶんとした[1]
  2. ^ 次男じなん同期どうきには山下やました幸輝ゆきてるがおり、ひがし東京とうきょう大会たいかい決勝けっしょうせんでは三ツ俣みつまた大樹たいじゅようする修徳しゅうとく高校こうこうにサヨナラちして甲子園こうしえん出場しゅつじょうめている[5]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん』1987ねん5がつ9にち東京とうきょう朝刊ちょうかん社会しゃかいめん22ぺーじ傷害しょうがい大洋たいよう球団きゅうだんさん選手せんしゅ起訴きそ猶予ゆうよ処分しょぶんに」(毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう本社ほんしゃ
  2. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん』1987ねん3がつ31にち東京とうきょう朝刊ちょうかん社会しゃかいめん23ぺーじ大洋たいよう竹田たけだひかりくん投手とうしゅら3にん深夜しんやノロノロ運転うんてんの3少年しょうねんなぐ検挙けんきょ」(毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう本社ほんしゃ
  3. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1987ねん3がつ31にち朝刊ちょうかんだい12はんだいいち社会しゃかいめん27ぺーじ「【横須賀よこすか大洋たいよう3選手せんしゅ 少年しょうねん乱暴らんぼう 竹田たけだ投手とうしゅら ノロノロ運転うんてん腹立はらたて」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ) - 『中日新聞ちゅうにちしんぶん縮刷しゅくさつばん 1987ねん昭和しょうわ63ねん)3がつごう1159ぺーじ
  4. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1991ねん11月2にち朝刊ちょうかんだいいち運動うんどうめん25ぺーじ竹田たけだ引退いんたい 大洋たいよう打撃だげき投手とうしゅに」(中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ
  5. ^ a b 小原おはら栄二えいじ【スポーツ】 関東かんとういち逆転ぎゃくてんサヨナラ切符きっぷ高校こうこう野球やきゅう地方ちほう大会たいかい ひがし東京とうきょう決勝けっしょう紙面しめんから、『中日ちゅうにちスポーツ中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ、2010ねん7がつ28にちオリジナルの2010ねん7がつ31にち時点じてんにおけるアーカイブ。「宮下みやしたちち正彦まさひこさんは大洋たいようげん横浜よこはま)で外野がいやしゅとして活躍かつやく宮下みやしたおさないころに離婚りこんしたのち見守みまもってくれていたが、一昨年いっさくねんなつに46さい病死びょうし。」
  6. ^ a b 小原おはら栄二えいじせき東一とういち宮下みやしたもとプロのちち親孝行おやこうこうだん」『デイリースポーツ神戸新聞社こうべしんぶんしゃ、2010ねん8がつ8にちオリジナルの2010ねん8がつ11にち時点じてんにおけるアーカイブ。「ちちもと横浜よこはま宮下みやした正彦まさひこ。1年生ねんせい出場しゅつじょうした一昨年いっさくねん大会たいかい直前ちょくぜん、46さい肝臓かんぞうがんのため死去しきょした。」

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]