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山本やまもと慈昭

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やまもと じしょう

山本やまもと 慈昭
生誕せいたん (1902-01-25) 1902ねん1がつ25にち
長野ながのけん下伊那しもいなぐん阿智あちむら
死没しぼつ (1990-02-15) 1990ねん2がつ15にち(88さいぼつ
長野ながのけん飯田いいだ
死因しいん 慢性まんせい呼吸こきゅう不全ふぜん
記念きねん 山本やまもと慈昭おきなぞう長野ながのけん下伊那しもいなぐん阿智あちむら ちょうだけてら[1]
住居じゅうきょ 長野ながのけん下伊那しもいなぐん阿智あちむら ちょうだけてら
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
別名べつめい 山本やまもと 梅雄うめお本名ほんみょう
出身しゅっしんこう 比叡山ひえいざん専修せんしゅういん附属ふぞく叡山えいざん学院がくいん
職業しょくぎょう そう
活動かつどう期間きかん 1965ねん - 1987ねん
時代じだい 昭和しょうわ
団体だんたい にちちゅう友好ゆうこうしゅをつなぐかい
著名ちょめい実績じっせき 中国ちゅうごく残留ざんりゅう日本人にっぽんじん孤児こじ肉親にくしんさが
肩書かたが にちちゅう友好ゆうこうしゅをつなぐかい 会長かいちょう
後任こうにんしゃ 竹川たけかわ英幸ひでゆき大阪おおさか中国ちゅうごく帰国きこくしゃセンター理事りじちょう
宗教しゅうきょう 仏教ぶっきょう
受賞じゅしょう 吉川よしかわ英治えいじ文化ぶんかしょう1982ねん
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山本やまもと 慈昭(やまもと じしょう、1902ねん1がつ25にち - 1990ねん2がつ15にち[2])は、日本にっぽんそう福祉ふくし活動かつどう長野ながのけん下伊那しもいなぐん阿智あちむら出身しゅっしん本名ほんみょう山本やまもと 梅雄うめお[3]中国ちゅうごく残留ざんりゅう日本人にっぽんじん孤児こじ肉親にくしんさがしに挺身ていしんし、200にん以上いじょう孤児こじたちと肉親にくしんたちとの再会さいかい実現じつげんさせた人物じんぶつであり、「中国ちゅうごく残留ざんりゅう孤児こじちち」とばれる[4]吉川よしかわ英治えいじ文化ぶんかしょうだい16かい1982ねん受賞じゅしょうしゃ[2][5]比叡山ひえいざん専修せんしゅういん附属ふぞく叡山えいざん学院がくいん卒業そつぎょう[2]

経歴けいれき

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満州まんしゅうでの惨劇さんげき

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1902ねん明治めいじ35ねん誕生たんじょう。8さい出家しゅっけし、長野ながの善光寺ぜんこうじ比叡山ひえいざんでの修行しゅぎょうホノルルでの延暦寺えんりゃくじ別院べついん創設そうせつて、1937ねん昭和しょうわ12ねん)に阿智あちむらちょうたけしてら住職じゅうしょくとなり、ここで生涯しょうがい大半たいはんごすこととなった[6]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)、阿智あちむらから満蒙まもう開拓かいたく移民いみん一団いちだん阿智あちきょう開拓かいたくだん」がおくまれることになり、子供こどもたちの教師きょうしやくとして、当時とうじ国民こくみん学校がっこう教員きょういん兼職けんしょくしていた山本やまもと指名しめいされた。山本やまもと不安ふあんながらもつま2人ふたりむすめれ、おしである国民こくみん学校がっこう生徒せいとたちを引率いんそつして満州まんしゅうへわたった[7]当初とうしょは1ねんのみの予定よていだったが、わずか3かげつだい世界せかい大戦たいせん末期まっきである同年どうねん8がつソ連それんぐん侵攻しんこう状況じょうきょう一変いっぺん決死けっし逃避行とうひこうすえ山本やまもと妻子さいしはなされてシベリア抑留よくりゅうとなった[8]

終戦しゅうせんから2ねん1947ねん昭和しょうわ22ねん)、帰国きこく郷里きょうり家族かぞくとの再会さいかいたのしみにしていたものの、かれっていたものは家族かぞくではなく、つまむすめ2にん、そして阿智あちきょう開拓かいたくだんの8わり日本にっぽんもどることがかなわなかったとのしらせだった[8]阿智あちきょう開拓かいたくだん団員だんいんぜん215にんのうち、帰国きこくできたもの山本やまもとふくめわずか13にんであり、山本やまもとおしたちの生存せいぞんしゃは、当初とうしょの51にんのうち6にんにすぎないということだった[9]

かなしみのなか山本やまもとはせめて仲間なかまたちの遺骨いこつひろうべく1964ねん昭和しょうわ39ねん)に訪中ほうちゅう当時とうじ中国ちゅうごく国務こくむいん総理そうりであるしゅう恩来おんらい山本やまもと歓迎かんげいしたが、遺骨いこつ収集しゅうしゅうみとめられなかった[10][9]。これには、同年どうねん中国ちゅうごくかく実験じっけん内閣ないかく総理そうり大臣だいじん就任しゅうにん直後ちょくご佐藤さとう栄作えいさく批判ひはんし、さらに日本にっぽん共産党きょうさんとう大会たいかい参加さんかのぞんだ北京ぺきん市長しちょう彭真日本にっぽんがわ入国にゅうこく拒否きょひしたことで[10]中国ちゅうごくがわかられば日本にっぽん新内しんないかく中国ちゅうごく敵視てきししているも同然どうぜんといった事情じじょうがあった[9]

中国ちゅうごく残留ざんりゅう孤児こじ肉親にくしんさが

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1965ねん昭和しょうわ40ねん)、中国ちゅうごく黒竜江こくりゅうこうしょう在住ざいじゅう中国ちゅうごく残留ざんりゅう日本人にっぽんじんから手紙てがみとどいた。山本やまもと訪中ほうちゅうなにかでったらしく[3]日本にっぽんにいる肉親にくしん捜索そうさく依頼いらいする手紙てがみであった。これを山本やまもとは、まだ生存せいぞんしている中国ちゅうごく残留ざんりゅう日本人にっぽんじん孤児こじ存在そんざいり、かれらを日本にっぽん肉親にくしんあわせることを決意けついした[11]てら住職じゅうしょくとしての仕事しごと合間あいまに、厚生省こうせいしょう外務省がいむしょう法務省ほうむしょうなど各省かくしょうまわり、国会こっかい議員ぎいん全員ぜんいんにも手紙てがみいたが、返事へんじられなかった。それどころか厚生省こうせいしょうでは孤児こじたちからの肉親にくしんさがしの依頼いらい手紙てがみが20つう以上いじょうたなねむっている状態じょうたいだった[12]

さらに1969ねん昭和しょうわ44ねん)、阿智あちきょう開拓かいたくだん生存せいぞんしゃ1人ひとり死去しきょの2にちまえじつ開拓かいたくだん8わりうそ告白こくはくした。自分じぶんたちは子供こどもたちのいのちすくうべく中国人ちゅうごくじんたちにわたし、のち帰国きこくできた自分じぶんたちは口裏くちうらわせて全員ぜんいんんだとうそをついたのであり、山本やまもとつま次女じじょんだが、山本やまもと長女ちょうじょ、そして山本やまもとおし15にん生存せいぞんしているはずとのことだった[11][13]。こうして山本やまもとは、長女ちょうじょおしたちとの再会さいかい希望きぼういだき、孤児こじさがしの使命しめいかんをさらにつよめた[12]

山本やまもと依頼いらいにより、新聞しんぶんやテレビでは機会きかいあるごとに孤児こじたちの存在そんざい報道ほうどうされはじめた。1970ねん昭和しょうわ45ねん)にはNHK協力きょうりょくのもと、肉親にくしん不明ふめい孤児こじたちへのびかけと、山本やまもとのもとへ連絡れんらくするむね放送ほうそうが、日本語にほんご中国ちゅうごく両方りょうほう中国ちゅうごく全土ぜんどながれた[12]

にちちゅう友好ゆうこうしゅをつなぐかい

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1972ねん昭和しょうわ47ねん)、にちちゅう国交こっこう正常せいじょうに、満州まんしゅうからのしゃ関係かんけいしゃ山本やまもとのもとにつどい「にちちゅう友好ゆうこうしゅをつなぐかい」が結成けっせいされ、山本やまもと会長かいちょうとし、中国ちゅうごく孤児こじたちの手紙てがみのやりとりや、日本にっぽん肉親にくしんたちの訪問ほうもんなどの活動かつどう開始かいしされた。くにちからられない以上いじょう山本やまもとてら収入しゅうにゅう自分じぶん老齢ろうれい年金ねんきん活動かつどう資金しきんにあてる決意けついかためていた[14]会員かいいんなかには「岸壁がんぺきはは」としてられる端野たんのいせもおり、彼女かのじょ協力きょうりょくのためにぜん財産ざいさんすこともしまなかった[11]

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茶人ちゃじんぼうをかぶった山本やまもと慈昭の姿すがた国際こくさい留学生りゅうがくせい教会きょうかい

このころから山本やまもとは「最後さいご1人ひとりさがすまで」とのちかいのもとに茶人ちゃじんぼうをかぶりはじめた。就寝しゅうしん入浴にゅうよく以外いがいつねにかぶるこの茶人ちゃじんぼうが、いつしかかれのトレードマークとなった[15]

どう1972ねん待望たいぼう残留ざんりゅう孤児こじ日本にっぽん肉親にくしんとの再会さいかいだい1ごう実現じつげん。この模様もようはNHKでげられ、よく1973ねん昭和しょうわ48ねん)にドキュメンタリー番組ばんぐみ阿智あちむら ある山村さんそん昭和しょうわ』として放映ほうえいされた[16][17]。このころ中国ちゅうごく残留ざんりゅう孤児こじのことはまだ世間せけんでは存在そんざいすらられていなかったが、やがてNHKにくわえて新聞しんぶん各紙かくし孤児こじらの情報じょうほうげたことで、孤児こじらの肉親にくしんさがしは次第しだい本格ほんかくはじめた。中国ちゅうごくでも、山本やまもと孤児こじたちを熱心ねっしんあんじているうわさ全土ぜんどひろまっていた[14]身元みもと判明はんめいした孤児こじは、結成けっせいにはわずか2人ふたりだけだったものの、地道じみち活動かつどうすえ1980ねん昭和しょうわ55ねん)には177にんにまでたっしていた[14][18]

大阪おおさか中国ちゅうごく帰国きこくしゃセンターの理事りじちょうである竹川たけかわ英幸ひでゆきも、そうして山本やまもとにより肉親にくしんめぐえた1人ひとりである。帰国きこくできた竹川たけかわ自信じしんをもって「わたしよりみじめな人生じんせいあゆんだひとはいない」とったところ、山本やまもとが「ばかもの! たしかにおまえは苦労くろうしたが12さいだった。だがいもうとおとうと年齢ねんれい子供こどもたちがなんせんにんなんまんにん孤児こじになったのかしれない。そのたちは自分じぶん何者なにものか、いつかえってこられるかさえわからないんだ[ちゅう 1]」と怒鳴どなりつける一幕ひとまくもあった[19][20]

活動かつどう活発かっぱつするころには山本やまもとはすでに70さいえていたが、それでも長野ながのから東京とうきょうまでやく7あいだ経路けいろをものともせずに各省かくしょう国会こっかい議員ぎいんたずあるき、かすみせきでは「ひょうきん坊主ぼうず」「満州まんしゅうがえりの変人へんじん坊主ぼうず」とばれた[21]ちょうたけてら住職じゅうしょくにゅうあきらじゅん(はいる・りょうじゅん)は山本やまもとちょうたけしてらごした経験けいけんち、当時とうじかれ生活せいかつすさまじさを「いつているかわからないぐらい」とかたっている[22]作家さっか和田わだのぼる1986ねん昭和しょうわ61ねん)に取材しゅざいのために山本やまもとのもとをおとずれたさいには、30ふんおきほどに電話でんわつづけ、そのほとんどが孤児こじかんする電話でんわだったという[23]

訪中ほうちゅう調査ちょうさ

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1980ねん山本やまもとたちは中国ちゅうごく現地げんち調査ちょうさおこなうべく、「孤児こじ慰問いもん」としょうして訪中ほうちゅう調査ちょうさおこなった。吉林きつりんしょうではやく30にん孤児こじらと出逢であい、かれらの肉親にくしんさがせずにいることを謝罪しゃざいし、かれらのおや最後さいご1人ひとりまでさがすことをちかった。この孤児こじたちは政府せいふ認可にんかのおりたものたちだが、ほかにも許可きょかられなかったやく300にん孤児こじたちが大勢おおぜいすわんでいた[3]なかにはすうひゃくキロメートルの距離きょりあるいてやってものもいた。それを山本やまもと役人やくにん制止せいしってし、日本語にほんごで「かれらを見捨みすてて日本にっぽんかえることはできない。わかってくれ[ちゅう 2]」とさけんだ。もはや役人やくにん山本やまもと制止せいしできなかった。このときの山本やまもとのききと調査ちょうさは300にんにおよび、おおきな反響はんきょうんだ[18]

このとき参加さんかした孤児こじ1人ひとり協力きょうりょくにより、山本やまもと長女ちょうじょ消息しょうそく判明はんめいした。1982ねん昭和しょうわ57ねん)に2かい訪中ほうちゅう調査ちょうさおこなわれ、山本やまもと黒龍江こくりゅうこうしょうでついに長女ちょうじょ念願ねんがん対面たいめんたした。長女ちょうじょには中国ちゅうごく長年ながねんともにくらした家族かぞくがいるためにすぐに帰国きこくはできなかったが、のち永住えいじゅう帰国きこくたした。その山本やまもとらによる訪中ほうちゅう調査ちょうさつづけられ、1986ねんまで9かいにおよんだ[15]

厚生省こうせいしょうによる調査ちょうさ開始かいし

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1975ねん昭和しょうわ50ねん)、厚生省こうせいしょうでも孤児こじ情報じょうほう公開こうかい調査ちょうさ開始かいしされたが、顕著けんちょ結果けっかられずにいた。1980ねん当時とうじ厚生こうせい大臣だいじんである園田そのだただしは、山本やまもと感謝かんしゃじょうおくるとともに帝国ていこくホテルで食事しょくじ招待しょうたいした。山本やまもとはこの運動うんどう予算よさんをつけることをねがい、返事へんじをもらうまで食事しょくじをつけないとり、園田そのだはそれにおうじた[15]

山本やまもと民間みんかんによる運動うんどうはついにくにうごかすにいたり、集団しゅうだん訪日ほうにち調査ちょうさ予算よさんされ、よく1981ねん昭和しょうわ56ねん)からくにによる残留ざんりゅう孤児こじたちの集団しゅうだん訪日ほうにち調査ちょうさ開始かいしされた[15]。このことを皮切かわきりに、新聞しんぶん、テレビ、ラジオなどあらゆるマスコミも協力きょうりょくし、肉親にくしんさがしのために来日らいにちする孤児こじたちの話題わだいほうじた[24]厚生省こうせいしょうによる調査ちょうさ東京とうきょう代々木よよぎおこなわれるさい山本やまもとかなら参加さんかし、長野ながの東京とうきょう往復おうふくが2週間しゅうかんで3かいにおよぶこともあった[22]

残留ざんりゅう孤児こじたちの支援しえん

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山本やまもと来日らいにちする孤児こじたちのあんじ、「きょうから、わたしがみなさんの父親ちちおやになります。いつでも日本にっぽんてください。わたしいえてください[ちゅう 3]」とびかけた。この言葉ことばけっして額面がくめんだけのものではなく[4]実際じっさい山本やまもと自宅じたくを「浮浪ふろうかく」と名付なづけ、孤児こじたちや家族かぞくたちの宿泊しゅくはくよう開放かいほうしていた。これは孤児こじたちや肉親にくしんたちの家庭かてい事情じじょうで、親子おやこ名乗なのりがむずかしかったり、子供こども永住えいじゅう帰国きこくおやこばんだ場合ばあい配慮はいりょでもあった。一時いちじ山本やまもとたくせた孤児こじたちは、のべ50にんにおよんだ[22]

やがて帰郷ききょう永住えいじゅう帰国きこく来日らいにちする孤児こじたちの増加ぞうかにつれ、かれらの日本にっぽんでの生活せいかつ支援しえんのため、1985ねん昭和しょうわ60ねん)、「にちちゅう友好ゆうこうしゅをつなぐかい」によりちょうたけしてらのそばに支援しえん施設しせつこう拯会かん(こうじょうかいかん)」が完成かんせい日本にっぽんでの生活せいかつ必要ひつよう日本語にほんご生活せいかつ習慣しゅうかんおしえるとなった。教師きょうし残留ざんりゅう孤児こじ3せいつとめ、孤児こじたちの事情じじょうをよくっているため、孤児こじたちにとっての精神せいしんてきどころにもなった。2004ねん時点じてんでは孤児こじ2せいたち2世帯せたい7にん生活せいかつしており、同年どうねん時点じてんまでにやく200世帯せたいおくした[25]

同年どうねんには山本やまもとらは、孤児こじたちが帰国きこくまえ日本語にほんごおぼえるため、中国ちゅうごく黒竜江こくりゅうこうしょうとの協力きょうりょくうえ同省どうしょうジャムス日本語にほんご学校がっこう開校かいこう。その資金しきんのために山本やまもと老齢ろうれい年金ねんきんをつぎみ、借金しゃっきんのために自宅じたくまで抵当ていとうれた[22]

晩年ばんねん

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中国ちゅうごく残留ざんりゅう孤児こじ肉親にくしんさがしのいちおう目処めどがついたのち1987ねん昭和しょうわ62ねん)7がつ山本やまもと北朝鮮きたちょうせん残留ざんりゅう孤児こじ問題もんだいにとりかかるべく北朝鮮きたちょうせんにわたるが、成果せいかられなかったばかりか、持病じびょう喘息ぜんそく発作ほっさおそわれ、緊急きんきゅう帰国きこくいられた。病床びょうしょうにおいても、100さいまできて孤児こじのためにくすと意気揚揚いきようようだったが、1990ねん平成へいせい2ねん)2がつ15にち長野ながのけん飯田いいだうち病院びょういんで、慢性まんせい呼吸こきゅう不全ふぜんにより、まん88さい死去しきょした[26]

死去しきょ10日とおかまえには前述ぜんじゅつ竹川たけかわ英幸ひでゆきに「たのむよ」といいのこし、竹川たけかわは「安心あんしんしてください」と約束やくそくした[27]葬儀そうぎじょう日本にっぽん全国ぜんこくからあつまった孤児こじくされ、かつて満州まんしゅうわかれたおし1人ひとりなみだながらに弔辞ちょうじんだ。孤児こじやその肉親にくしんたちから山本やまもとてにおくられた手紙てがみは4まんつうたっし、ちょうたけしてら門前もんぜん山本やまもと慈昭記念きねんかん保存ほぞんされている[21]

山本やまもとあつかった作品さくひん

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ノンフィクション
  • 望郷ぼうきょう 中国ちゅうごく残留ざんりゅう孤児こじちち山本やまもと慈昭(ちょ和田わだのぼるくもん出版しゅっぱん「くもんのノンフィクション・あいのシリーズ」、1987ねん
    • 望郷ぼうきょうかね 中国ちゅうごく残留ざんりゅう孤児こじちち山本やまもと慈昭(ちょ和田わだのぼるしなのき書房しょぼう、2013ねん
映画えいが
  • 山本やまもと慈昭 望郷ぼうきょうしょう みつるごう開拓かいたくだん落日らくじつ現代げんだいぷろだくしょん、2013ねん製作せいさく翌年よくねんから日本にっぽん各地かくち上映じょうえい[28][29]) - 上記じょうき望郷ぼうきょうかね」を原作げんさくとする映画えいが作品さくひん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ npo_thercのツイート(1223776504019963905)
  2. ^ a b c 上田うえだ 2001, p. 1996
  3. ^ a b c 山本やまもと慈昭”. 向学こうがく新聞しんぶん. 国際こくさい留学生りゅうがくせい教会きょうかい (2007ねん12がつ). 2013ねん12月25にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 110–111
  5. ^ 吉川よしかわ英治えいじ文化ぶんかしょう”. 講談社こうだんしゃ (2022ねん). 2023ねん7がつ12にち閲覧えつらん
  6. ^ 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 114–115
  7. ^ 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 115–117
  8. ^ a b 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 117–118
  9. ^ a b c げん 1981, p. 31-35
  10. ^ a b 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 118–119
  11. ^ a b c 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 119–122
  12. ^ a b c 和田わだ 1987, pp. 113–124
  13. ^ げん 1981, p. 36-37
  14. ^ a b c 和田わだ 1987, pp. 125–140
  15. ^ a b c d 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 126–129
  16. ^ げん 1981, p. 43
  17. ^ ドキュメンタリー 阿智あちむら ある山村さんそん昭和しょうわ”. NHKアーカイブス. 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. 2023ねん7がつ12にち閲覧えつらん
  18. ^ a b 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 124–126
  19. ^ 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 122–123
  20. ^ 壮絶そうぜつ反省はんせいえ、帰国きこくしゃ支援しえん情熱じょうねつそそ」『おおさか人権じんけん情報じょうほう そうぞう』No.21、大阪おおさか人権じんけん教会きょうかい、2007ねん6がつ、6ぺーじ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:01013006 
  21. ^ a b 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 123–124
  22. ^ a b c d 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 131–132
  23. ^ 和田わだ 1987, p. 172
  24. ^ 和田わだ 1987, p. 164
  25. ^ 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 130–131
  26. ^ 産経新聞さんけいしんぶんりんとして」取材しゅざいはん 2004, pp. 132–133
  27. ^ 山本やまもと慈昭さんの17回忌かいき”. 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん みなみ信州しんしゅう地域ちいき資料しりょうセンター (2006ねん2がつ15にち). 2013ねん12月22にち閲覧えつらん[リンク]
  28. ^ 満蒙まもう開拓かいたく題材だいざい 映画えいが製作せいさくへ」『信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶん信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶんしゃ、2013ねん11月12にち、1めん
  29. ^ 望郷ぼうきょうかね 満蒙まもう開拓かいたく悲劇ひげき”. 現代げんだいぷろだくしょん. 2020ねん11月21にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • 望郷ぼうきょうかね - 映画えいが望郷ぼうきょうしょう みつるごう開拓かいたくだん落日らくじつ公式こうしきサイト