山田やまだ宇右衛門えもん

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山田やまだ宇右衛門えもん
時代じだい 江戸えど時代じだい
生誕せいたん 文化ぶんか10ねん9月9にち1813ねん10月2にち
死没しぼつ 慶応けいおう3ねん11月11にち1867ねん12月6にち
別名べつめい いみなよりゆきあつし
ごう心気しんきとき星山ほしやま
主君しゅくん 毛利もうりたかしおや
はん 長州ちょうしゅうはん藩士はんし
父母ちちはは 増野ますのしげる左衛門さえもん山田やまだ三郎さぶろうみぎ衛門えもん
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山田やまだ 宇右衛門えもん(やまだ うえもん)は、江戸えど時代じだい後期こうき武士ぶし長州ちょうしゅう藩士はんし

来歴らいれき[編集へんしゅう]

生家せいか増野ますのだいぐみ山田やまだろくだか100せき)の養子ようしになって家督かとくぐ。安政あんせい元年がんねん1854ねん相州あいしゅう警衛けいえいそう奉行ぶぎょう手先てさきやく安政あんせい3ねん1856ねん徳地とくじ代官だいかん万延まんえん元年がんねん1860ねん遠方えんぽうかた文久ぶんきゅう3ねん1863ねんおく阿武あぶ代官だいかん元治もとはる元年がんねん1864ねんぐん奉行ぶぎょう歴任れきにん

安政あんせい2ねん1855ねん)7がつ西洋せいようしき鉄製てつせい大砲たいほう鋳造ちゅうぞう方法ほうほう習得しゅうとくするため、反射はんしゃ築造ちくぞう成功せいこうしていた佐賀さがはん派遣はけんされるが交渉こうしょう失敗しっぱいした[1](ただし、その藩士はんし交渉こうしょうおもむき、最終さいしゅうてきはぎ反射はんしゃ築造ちくぞうされている)。

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん政務せいむ学習がくしゅういんようかけのとき京都きょうとにあり、尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう参加さんかした。ただし藩政はんせいにおいては中立ちゅうりつぞくしていた。長州ちょうしゅうはんではもと元年がんねん(1864ねん)のだいいち長州ちょうしゅう征討せいとう討幕とうばく長州ちょうしゅう正義せいぎ)が勢力せいりょくよわめ、恭順きょうじゅん俗論ぞくろん)が台頭たいとうしていたが、同年どうねん正義せいぎによるクーデター(こう山寺やまでら挙兵きょへい)によってふたた討幕とうばく藩政はんせいにぎると、慶応けいおう元年がんねん1865ねん番頭ばんがしらかく政務せいむやく就任しゅうにん参政さんせい首座しゅざとなって、木戸きど孝允たかよしとともにはんないにおける指導しどうてき立場たちばとなり、兵学へいがく教授きょうじゅとして軍備ぐんび拡張かくちょう推進すいしんするなど藩政はんせい刷新さっしん尽力じんりょくした。しかし、慶応けいおう3ねん(1867ねん)に明治維新めいじいしんまえ病没びょうぼつ

山鹿やまがりゅう兵学へいがく吉田よしだ大助だいすけについてまなび、大助おおすけ養子ようしである吉田よしだ松陰しょういん後見こうけんやくでもあった。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ はぎ反射はんしゃ - 九州きゅうしゅう山口やまぐち近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐん 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしん協議きょうぎかいウェブサイト

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]