出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田 宇右衛門(やまだ うえもん)は、江戸時代後期の武士、長州藩士。
| この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "山田宇右衛門" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2023年3月) |
生家は増野氏。大組・山田氏(禄高100石)の養子になって家督を継ぐ。安政元年(1854年)相州警衛総奉行手先役、安政3年(1856年)徳地代官、万延元年(1860年)遠方方、文久3年(1863年)奥阿武代官、元治元年(1864年)郡奉行を歴任。
安政2年(1855年)7月、西洋式鉄製大砲の鋳造方法を習得するため、反射炉築造に成功していた佐賀藩に派遣されるが交渉は失敗した[1](ただし、その後も他の藩士が交渉に赴き、最終的に萩反射炉が築造されている)。
文久2年(1862年)政務座・学習院用掛のとき京都にあり、尊王攘夷運動に参加した。ただし藩政においては中立派に属していた。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征討を期に討幕派(長州正義派)が勢力を弱め、恭順派(俗論派)が台頭していたが、同年の正義派によるクーデター(功山寺挙兵)によって再び討幕派が藩政を握ると、慶応元年(1865年)番頭格・政務座役に就任。参政首座となって、木戸孝允とともに藩内における指導的立場となり、兵学教授として軍備拡張を推進するなど藩政刷新に尽力した。しかし、慶応3年(1867年)に明治維新を前に病没。
山鹿流兵学は吉田大助について学び、大助の養子である吉田松陰の後見役でもあった。
登場作品[編集]
- ^ 萩反射炉 - 九州・山口の近代化産業遺産群 世界遺産登録推進協議会ウェブサイト