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山辺やまべ皇女おうじょ

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山辺やまべ皇女おうじょ
ぜんぞう本朝ほんちょう古今ここんれつおんなでん
時代じだい 飛鳥あすか時代ときよ
生誕せいたん しょう
薨去こうきょ 朱鳥あすか元年がんねん10月3にち686ねん10月25にち
父母ちちはは ちち天智天皇てんぢてんのうはは蘇我赤兄そがのあかえむすめ常陸ひたちむすめ
兄弟きょうだい 弘文天皇こうぶんてんのうけん皇子おうじ川島かわしま皇子おうじ志貴しき皇子おうじ大田おおた皇女おうじょもちすべ天皇てんのう御名ぎょめい皇女おうじょ元明もとあき天皇てんのう山辺やまべ皇女おうじょ明日香あすか皇女おうじょしん田部たなべ皇女おうじょ大江おおえ皇女おうじょいずみ皇女おうじょ水主みずし皇女おうじょ
おっと 大津皇子おおつのおうじ
粟津あわづおう
テンプレートを表示ひょうじ

山辺やまべ皇女おうじょ(やまのべのひめみこ)は、天智天皇てんぢてんのう皇女おうじょはは蘇我赤兄そがのあかえむすめ常陸ひたちむすめ大津皇子おおつのおうじ正妃せいひ

生涯しょうがい

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天智天皇てんぢてんのう皇女おうじょとして誕生たんじょう大津皇子おおつのおうじ正妃せいひとなったが、朱鳥あすか元年がんねん(686ねん)に皇子おうじ謀反むほんありとしてとらえられていわあまり自邸じていたまわったのにともな殉死じゅんしした。その様子ようすは『日本書紀にほんしょき』に「かみ徒跣かちはだし、奔赴殉焉、しゃみな歔欷きょきかみみだして裸足はだしはしり、殉死じゅんしした。それをものみななげかなしんだ)」としるされている。

血縁けつえん

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粟津あわづおう豊原とよはらとされるが、その系図けいずには矛盾むじゅんてんおおく、信憑しんぴょうせいうすいとの見方みかた有力ゆうりょくである。