山野辺やまのべ義正よしまさ

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山野辺やまのべ 義正よしまさ
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 文政ぶんせい7ねん12月2にち1825ねん1がつ20日はつか
死没しぼつ よしみひさし2ねん10月3にち1849ねん11月17にち
諡号しごう ふところ
墓所はかしょ 茨城いばらきけん日立ひたち高鈴たかすずまち山野邊やまのべ墓所はかしょ
主君しゅくん 徳川とくがわ慶篤よしあつ
はん 常陸ひたち水戸みとはん家老がろう
氏族しぞく 山野辺やまのべ
父母ちちはは ちち山野辺やまのべよしかん
ははせい牧野まきのさだみきむすめ
兄弟きょうだい 義正よしまさげい
つま 正室せいしつしゅくひめ徳川とくがわ斉昭なりあきさんじょ
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山野辺やまのべ 義正よしまさ(やまのべ よしまさ)は、江戸えど時代じだい後期こうき水戸みとはん家老がろう。2だい助川すけかわ海防かいぼうじょうおも

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

文政ぶんせい7ねん1824ねん)、山野辺やまのべよしかん長男ちょうなんとしてまれる。天保てんぽう12ねん1841ねん)、藩主はんしゅ徳川とくがわ斉昭なりあきさんじょしゅくひめめとる。

ひろし2ねん1845ねん)、かん隠居いんきょにより家督かとく相続そうぞく助川すけかわ海防かいぼう城主じょうしゅとなった。元来がんらい病弱びょうじゃくであったことにくわえ、先代せんだい藩主はんしゅ前年ぜんねん隠居いんきょして嫡男ちゃくなん慶篤よしあつ家督かとくゆずった)斉昭なりあき活動かつどう幕府ばくふ関係かんけい複雑ふくざつはんない闘争とうそうかさなり、よしみひさし2ねん1849ねん)26さい死去しきょした。助川すけかわ東平山ひがしひらやまほうむられ、ふところ諡号しごうあたえられた。

つましゅくひめ義正よしまさから4ねんよしみなが6ねん1853ねん)、27さい死去しきょした。

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 鈴木すずきあきら幕末ばくまつ日立ひたち助川すけかわ海防かいぼうじょう全貌ぜんぼう常陸ひたち書房しょぼう、1974ねん
  • 鈴木すずきあきら助川すけかわ海防かいぼうじょう幕末ばくまつ水戸みとはん海防かいぼうさく』崙書房しょぼう、1979ねん