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山野辺 義芸(やまのべ よしつね)は、幕末期の水戸藩家老。3代助川海防城主。
天保3年(1832年)、山野辺義観の次男として生まれる。
嘉永2年(1849年)、兄・義正の死により家督を相続、3代目の助川海防城主となった。嘉永5年(1852年)、従五位下に叙せられ、主水正を称す。安政元年(1854年)、家老職に就いた。
幕末期にあたり、水戸藩は党派紛争のめまぐるしい時代であったが、万延元年(1860年)、先代藩主斉昭が没すると藩内の党争がさらに激化する。元治元年(1864年)3月、藤田小四郎が筑波山にて挙兵し、天狗党の乱が起こる。尊王攘夷派とみなされた義芸は6月、執政の任を解かれた。さらに幕府より天狗党追討令が出され、義芸は仲介を試みるも天狗党側とされた。9月6日に幕府・二本松藩らの陣営に包囲されて投降し、9月9日に助川海防城は落城した。12月に家名断絶、知行地と館を没収され、義芸は中山邸に禁錮された。
明治元年(1868年)、明治政府から官位を復され、水戸屋敷に住んだ。同年10月の弘道館戦争に参戦している。
明治19年(1886年)死去、享年55。
- 鈴木彰『幕末の日立―助川海防城の全貌』常陸書房、1974年
- 鈴木彰『助川海防城―幕末水戸藩の海防策』崙書房、1979年
- ^ 日立市報 2012年 8月 20日号No.1497 日立市