助川すけかわ海防かいぼうじょう

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助川すけかわ海防かいぼうじょう
茨城いばらきけん
助川城跡公園
助川すけかわ城跡じょうせき公園こうえん
別名べつめい じょ川城かわしろ
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 徳川とくがわ斉昭なりあき
築城ちくじょうねん 1836ねん天保てんぽう7ねん
おも城主じょうしゅ 山野辺やまのべ
はいじょうねん 1864ねん元治もとはる元年がんねん
遺構いこう 本丸ほんまるひょう御門みかど礎石そせきばとせき
指定してい文化財ぶんかざい 茨城いばらきけん史跡しせき
位置いち 北緯ほくい3635ふん29.6びょう 東経とうけい14038ふん22.7びょう / 北緯ほくい36.591556 東経とうけい140.639639 / 36.591556; 140.639639
地図ちず
助川海防城の位置(茨城県内)
助川海防城
助川すけかわ海防かいぼうじょう
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助川すけかわ海防かいぼうじょう(すけがわかいぼうじょう)は、茨城いばらきけん日立ひたち助川すけかわまち常陸ひたちこく多賀たがぐん助川すけかわかいがわ))にあった日本にっぽんしろ江戸えど時代じだい後期こうききずかれた。常陸ひたちおき異国いこくせん頻繁ひんぱん出没しゅつぼつしたことから、海防かいぼう目的もくてき築城ちくじょうされたが、天狗てんぐとうらん戦場せんじょうとなり焼失しょうしつした。城跡じょうせき茨城いばらきけん指定してい史跡しせき茨城いばらきひゃくけいとなっている。

築城ちくじょう経緯けいい[編集へんしゅう]

文化ぶんか13ねん1816ねん徳川とくがわ斉脩なりのぶ水戸みとはん8だい藩主はんしゅいたころから、常陸ひたちおきイギリス捕鯨ほげいせんなど異国いこくせん頻繁ひんぱんあらわれるようになり、海防かいぼう配備はいびおこなわれた。文政ぶんせい12ねん1829ねん)に徳川とくがわ斉昭なりあきが9だい藩主はんしゅくとさらに強化きょうかはかられ、天保てんぽう3ねん1832ねん)に海防かいぼうがかりもうけ、山野辺やまのべよしかん海防かいぼう御用ごようがかりめいじた。さらに天保てんぽう7ねん1836ねん)に助川すけかわしろきずかんに1まんせきあた海防かいぼう総司そうしにん居城きょじょうさせることとした。本来ほんらい一国一城いっこくいちじょうれいによりあらたにしろきずくことはきんじられていたため、佐竹さたけ時代じだい古城こじょう蓼沼たでぬまかん修築しゅうちくとして幕府ばくふねが建造けんぞうみとめられた[1]天保てんぽうだい飢饉ききんなどの影響えいきょうにより工事こうじ遅延ちえんしたが、同年どうねん12がつかん家臣かしん247めいしたがえて入城にゅうじょうした。築城ちくじょう工事こうじ天保てんぽう12ねん1841ねん)までかかった。普請ふしんきんは4000りょう[2]

天狗てんぐとうらん落城らくじょう[編集へんしゅう]

元治もとはる元年がんねん(1864ねん)4がつ水戸みとはんささえはんである宍戸ししどはんだい8だい藩主はんしゅ松平まつだいらよりゆきとく水戸みとはんだい10代藩主はんしゅ徳川とくがわ慶篤よしあついのちけ、水戸みとひょう騒乱そうらん制圧せいあつしたさいに、こころならずも尊王そんのう攘夷じょうい天狗てんぐとう筑波つくばぜい)と合流ごうりゅうすることになった。幕府ばくふ同年どうねん6がつ筑波つくばぜい追悼ついとうれい発出はっしゅつよりゆきとくらは那珂湊なかみなと現在げんざい茨城いばらきけんひたちなか)で佐幕さばくしょなまとう交戦こうせんになり、同年どうねん8がつ助川すけかわ海防かいぼうじょうだい3だい城主じょうしゅ山野辺やまのべよしげい来援らいえんじょうおくった。げいはこれをけて水戸みと進軍しんぐんしたが、しょなまとう水戸みとじょう入城にゅうじょうこばまれ助川すけかわ海防かいぼうじょうもどった。しょなまとうから報告ほうこくけた幕府ばくふは、助川すけかわ海防かいぼうじょう討伐とうばつぐんおくり、山野辺やまのべぐん応戦おうせんしたが、同年どうねん9がつげい幕府ばくふぐん投降とうこうした[3]しろのこった残党ざんとう抵抗ていこうつづけたが、最後さいごにはしろはなって逃走とうそうし、助川すけかわ海防かいぼうじょう築城ちくじょうわずか28ねん灰燼かいじんかえした[4]

歴代れきだい城主じょうしゅ[編集へんしゅう]

累代るいだい 人名じんめい 在位ざいい期間きかん 備考びこう
1
山野辺やまのべよしかん
天保てんぽう7ねん - ひろし2ねん西暦せいれき換算かんさん:1836ねん - 1845ねん 斉昭なりあき連座れんざ譴責けんせき隠居いんきょ
2
山野辺やまのべ義正よしまさ
ひろし2ねん - よしみひさし2ねん西暦せいれき換算かんさん:1845ねん - 1849ねん
3
山野辺やまのべよしげい
よしみなが2ねん - 元治もとはる元年がんねん西暦せいれき換算かんさん:1849ねん - 1864ねん 天狗てんぐとうらん家名かめい断絶だんぜつ

城郭じょうかく[編集へんしゅう]

助川すけかわ海防かいぼうじょう概要がいよう

多賀たがぐん助川すけかわ大平山おおひらやま古城跡こじょうあとてられた。本丸ほんまる標高ひょうこうやく110m、海岸かいがんまでの直線ちょくせん距離きょりやく2kmであり海防かいぼう指揮しきするにこう適地てきちであった。ぐん奉行ぶぎょう山国やまくに喜八郎きはちろう設計せっけい監督かんとくたり、幕府ばくふ進達しんたつした設計せっけいしょしるされた建造けんぞうぶつは、屋敷やしき構、土蔵どぞうこくぞう長屋ながや表門おもてもん居宅きょたく入口いりくちもんしがらみもん裏口うらぐち)、武器ぶき2むねかいづけ遠見とおみ番所ばんしょ居宅きょたくかいづけ物見ものみしがらみ矢来やらい[5]さらに、かんやしなえせいかん鉄砲てっぽう教練きょうれんじょうなどをもうけて城郭じょうかくとしてととのえた。なお、ほとんどが天狗てんぐとうらんうしなわれてしまい、遺構いこうとして現存げんそんしているのは本丸ほんまる表門おもてもん礎石そせきばとせきのみである。現在げんざい本丸ほんまるあと城跡じょうせき公園こうえんとうまるあと日立ひたちはとおかさくら福祉ふくしセンターとうさんまるあと日立ひたち総合そうごう病院びょういん日立ひたち市立しりつ助川すけかわ小学校しょうがっこうひとしになっている。

やしなえせいかん[編集へんしゅう]

天保てんぽう8ねん1837ねん)に、水戸みと藩校はんこう弘道こうどうかん先立さきだち、家臣かしん子弟してい教育きょういくのために開設かいせつされた。かんめい正道せいどうおさやしな意味いみ中国ちゅうごくえきけい由来ゆらいする。文武両道ぶんぶりょうどう教授きょうじゅしたが、海防かいぼうじょう性質せいしつじょうとく武技ぶぎ重点じゅうてんかれた。

現地げんち状況じょうきょう[編集へんしゅう]

所在地しょざいち
  • 茨城いばらきけん日立ひたち助川すけかわまち
交通こうつうアクセス
  • JR東日本ひがしにっぽん常磐線じょうばんせん日立ひたちえき」より茨城いばらき交通こうつう日立ひたちオフィスバスじょう南台みなみだいきで「ばとおか下車げしゃ
  • 常磐ときわ自動車じどうしゃどう日立ひたち中央ちゅうおうインターチェンジより10ふん
一般いっぱん公開こうかいじょうきょう
  • 助川すけかわ城跡じょうせき公園こうえん無料むりょうりができる。

ギャラリー[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日立ひたち日立ひたち

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 鈴木すずきあきら水戸みとはん海防かいぼう山野辺やまのべよしかん助川すけかわ史談しだんかい
  2. ^ 藤田ふじた東湖とうこにちろく
  3. ^ 水戸みと国難こくなんかい川城かわしろ記事きじ
  4. ^ 高瀬たかせしんきょう水戸みと史談しだん中外ちゅうがい図書としょきょく
  5. ^ 水戸みとはん国事こくじろく

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]