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つねつとむ

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つね つとむ(じょう ぎょく、なま没年ぼつねんしょう[1])は、中国ちゅうごくさんこく時代じだいしょく軍人ぐんじん政治せいじおさむぎょうしょくぐん江原えばらけんひと祖父そふつねいんちちつねだか叔父おじつね閎、おとうとつねくるわおいつねひろし。『華陽かようこくこころざし』の著者ちょしゃつねつねひろし子孫しそん

生涯しょうがい

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わかくして従兄弟いとこつねともられ、貧乏びんぼうやすんじて、『もう』『尚書しょうしょ』をおさめ、おおくの書物しょもつ通覧つうらんした。えきしゅうから従事じゅうじに辟召され、朝廷ちょうていはいってはひかり録郎ろくろうちゅう主事しゅじつとめ、また尚書しょうしょひだりせんろうとなり、しょくぐん要請ようせいこう曹となった。

当時とうじしゅうしょう軍政ぐんせいをおこなうさいとくぐん従事じゅうじき、けいごく担当たんとうさせていた。つねつとむ清廉せいれんさをもってとくぐん従事じゅうじにんじられ、公平こうへい処置しょちした。のちこうかどげられると郫県れいにんじられ、簡潔かんけつ政治せいじ人々ひとびとわずらわさなかった。

ほのおきょう元年がんねん263ねん)、鄧艾鍾会しょかずらいとぐちらがしょく侵攻しんこうし、鄧艾は陰平かげひら間道かんどうとおってけんかく迂回うかいし、綿めんちくいて成都せいとせまった。緜竹の陥落かんらくった各地かくち県令けんれい次々つぎつぎ降伏ごうぶくしたり逃亡とうぼうするなかつねつとむ官民かんみんひきいてしろ固守こしゅし、りゅうぜん降伏ごうぶく指示しじにより開城かいじょう降伏ごうぶくしたため、郫県の財産ざいさん保全ほぜんされた(しょくかん滅亡めつぼう)。

咸熙元年がんねん264ねん)、えきしゅう刺史ししにんじられた袁邵はそのこころざしぶし評価ひょうかぬし簿まねいた。つねつとむ威儀いぎただし、進退しんたいには風格ふうかくがあって言論げんろん壮烈そうれつであったためしゅうさとおもんじられた。また交友こうゆうはただ賢明けんめいさを基準きじゅんとし、おのれおよばないものとはかかわらなかった。このため博愛はくあい恩恵おんけいはなおりなかった。翌年よくねん、袁邵が朝廷ちょうてい招聘しょうへいされると随行ずいこうしたが[2]道中どうちゅう死去しきょした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 袁邵のちょうかえは265ねんなので死亡しぼうねんはその付近ふきん
  2. ^ 華陽かようこくこころざしまきはちすすむたいはじめもと年春としはる刺史しし袁邵以治じょうはたちょう。」

参考さんこう文献ぶんけん

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華陽かようこくこころざしまき十一といち