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つねぐうはる

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
開平かいへいおうつねぐうはる /『ばんわらいどう竹荘たけしょうでん』より

つね ぐうはる(じょう ぐうしゅん、いたりじゅん元年がんねん1330ねん) - ひろしたけ2ねん7がつ7にち1369ねん8がつ9にち))は、中国ちゅうごくあきらだい初期しょき武将ぶしょうはくじん

事績じせき

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ふところとお出身しゅっしん容貌ようぼう魁偉かいいいさむつとむ卓絶たくぜつし、射術しゃじゅつ得意とくいとした。はじめりゅう聚にしたがって盗賊とうぞくをしていたが、りゅう聚は大業おおわざおこすことができないとさっして見切みきりをつけ、1354ねんあかりふとししゅもとあきら)がへいをひきいてかずようにいたるとそこへおもむき、麾下きかはいった。さいせきいそたたかでモンゴルぐんやぶり、さいせき占領せんりょう平定へいていした。そのこうによりそうかんとくとなる。モンゴルが再度さいどさいせきおそうといかだあやつらせてこれをおおいにやぶり、ついで溧陽・あつまりけいへとすすんで功績こうせきをあげた。

元帥げんすいじょいたるしたがって鎮江つねしゅうり、へいじょいたるうし塘で包囲ほういしたときはこれを救援きゅうえんし、ちゅうつばさ大元帥だいげんすい任命にんめいされた。やすしこくめていたときにながにあたるが、そのままたたかって勝利しょうりし、べつ水軍すいぐん組織そしきして池州いけすくだす。

くだりしょうとく水軍すいぐん大元帥だいげんすいとなり婺州平定へいてい枢密院すうみついんごととなり衢州攻囲こういしたときにはへい使つかって突入とつにゅうし、へい1まんにん捕虜ほりょとした。僉枢密院すうみついんごととなり杭州こうしゅうめたが、戦果せんかなく召還しょうかんされた。しゅもとあきらちんともりょう杭州こうしゅううために留守るすめいじられたさい、ほう厳格げんかく執行しっこう軍民ぐんみんともに粛然しゅくぜんとしさからうものがなかった。くだりしょうまいり政事せいじ出世しゅっせし、あんけい占領せんりょうする。

つねぐうはるじょいたるとならんで功績こうせきのある宿将しゅくしょう邵栄反乱はんらんこしたときには、しゅもとあきらまぬかれさせたい意向いこうであったが、つねぐうはるはあくまで叛臣は処断しょだんすべきであると主張しゅちょうした。またともけんちょうまことやぶる。ふとしおうくらいにつくとたいらあきら政事せいじとなり、ついで鄂国こうふうぜられ、ふく将軍しょうぐん拝命はいめいし、太子たいしふとしねるなど、ますますおもんじられた。

1368ねんじょいたるとともにへいをひきいてきたせいし、ふとしはらめてモンゴルのしょうココ・テムル遁走とんそうさせ、也速をちょんやすしやぶり、開平かいへい占領せんりょうした。モンゴルみかど北方ほっぽうはらったので、いったんぐんをまとめてかえ途中とちゅう柳河やなかわがわ病没びょうぼつする。享年きょうねん40。ふとしはこのらせをおおいになげき、葬列そうれつりゅうたっするとそこまで出張でばり、したしく儀式ぎしき執行しっこうした。「開平かいへいおう」をついふうされ、おくりなは「忠武ただたけ」という。

ふとし皇太子こうたいししゅしるべつね孝康たかやす皇后こうごう)は、つねぐうはるむすめである。

参考さんこう

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  • あかり』125
  • あかり稿こう』116
  • すめらぎ明通あけどおりきのただしかい』206
  • くにあさけんじちょうろく』5
  • くにあさめいるいえん』1
  • こんけんじ備遺』1
  • あきらめいしん言行げんこうろく』1
  • すめらぎあかりめいしん琬琰ろく』1
  • すめらぎあかりめいしんげんじんろく』1
  • すめらぎあかり人物じんぶつこう』1
  • すめらぎあかり開国かいこく功臣こうしんろく』1
  • 本朝ほんちょう人物じんぶつ攷』14