平林ひらばやしじょう兵衛ひょうえ

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平林ひらばやし じょう兵衛ひょうえ(ひらばやし ていべえ、1855ねん1がつ13にち安政あんせい元年がんねん11月25にち[1]〉- 1925ねん大正たいしょう14ねん2がつ24にち[1])は、日本にっぽん政治せいじだい2だい八王子はちおうじちょう東京とうきょう府会ふかい議員ぎいん(2)、初代しょだい八王子はちおうじ町長ちょうちょうなどもつとめた。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

1854ねん安政あんせい元年がんねん11月25にちつく酒屋ざかや三男さんなんとして神奈川かながわけん愛甲あいこうぐん中津なかつむら(現在げんざい愛川あいかわまち)でまれそだったとされており、2さいときには八王子はちおうじ平林ひらばやし定平さだへい養子ようしとなる。


1885ねん明治めいじ18ねん)8がつおおとりどおり銀行ぎんこう創設そうせつふく頭取とうどり就任しゅうにんする。1888ねん明治めいじ21ねん)1がつおおとりどおり銀行ぎんこう頭取とうどり就任しゅうにんする。1889ねん明治めいじ22ねん4がつ25にち八王子はちおうじまち会議かいぎいん当選とうせんする(1903ねん明治めいじ36ねん)まで重任じゅうにん)。同年どうねん6月6にち初代しょだい八王子はちおうじ町長ちょうちょう就任しゅうにんする。1891ねん明治めいじ24ねん7がつ1にち神奈川かながわけんかい議員ぎいん当選とうせんする。同年どうねん12月12にち神奈川かながわ往還おうかん改修かいしゅう工事こうじ不正ふせい事件じけんにより辞職じしょくする。1892ねん明治めいじ25ねん5がつ10日とおかだい15かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ所属しょぞくしていた自由党じゆうとうからではなく吏党けい政党せいとうから立候補りっこうほするも落選らくせんする。1896ねん明治めいじ29ねん)2がつ東京とうきょう会議かいぎいん当選とうせんする。


1900ねん明治めいじ33ねん)4がつ八王子はちおうじ商業しょうぎょう会議かいぎしょふく会頭かいとう当選とうせんする。1902ねん明治めいじ35ねん3月11にち、5だい八王子はちおうじ町長ちょうちょう就任しゅうにんする。1903ねん明治めいじ36ねん4がつ17にち八王子はちおうじ町長ちょうちょう辞任じにんする。1905ねん明治めいじ38ねん2がつ4にち、7だい八王子はちおうじ町長ちょうちょう就任しゅうにん(7だい〜9だい1915ねん8がつ20日はつかまで)。ナンバースクール設置せっち電気でんき電話でんわ架設かせつ大字だいじ改正かいせいおこなう。1906ねん明治めいじ39ねん)、にち戦争せんそう戦病死せんびょうししゃ忠魂碑ちゅうこんひ完成かんせいなどの功績こうせきによりくんななとう青色あおいろきりあきら授与じゅよされる。1913ねん大正たいしょう2ねん)、文部もんぶ大臣だいじんから小学校しょうがっこう奨励しょうれい規定きていにより選奨せんしょうされる。1915ねん大正たいしょう4ねん9月25にち東京とうきょう会議かいぎいん当選とうせんする。1922ねん大正たいしょう11ねん2がつ16にち 、2だい八王子はちおうじ市長しちょう就任しゅうにんする。おも実績じっせきには上水道じょうすいどう敷設ふせつなどがある。


1925ねん大正たいしょう14ねん2がつ24にち体調たいちょうくず死去しきょ享年きょうねん70さい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 全国ぜんこく歴代れきだい知事ちじ市長しちょう総覧そうらん日外にちがいアソシエーツ、2022ねん、147ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]


先代せんだい
創設そうせつ
八王子はちおうじ町長ちょうちょう
初代しょだい:1889ねん - 1891ねん
次代じだい
大平おおひら安三やすぞう
先代せんだい
関谷せきやみなもと兵衛ひょうえ
八王子はちおうじ町長ちょうちょう
5だい:1902ねん - 1903ねん
次代じだい
柴田しばた榮吉えいきち
先代せんだい
柴田しばた榮吉えいきち
八王子はちおうじ町長ちょうちょう
だい7-9だい:1905ねん - 1915ねん
次代じだい
柴田しばた榮吉えいきち
先代せんだい
柴田しばた榮吉えいきち
八王子はちおうじ市長しちょう
1922ねん - 1925ねん
次代じだい
武藤むとう文吾ぶんご