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広瀬ひろせきょう (仙台せんだい)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
上流じょうりゅうがわから(2005ねん7がつ
下流かりゅうがわ(2009ねん4がつ
きゅう永町橋ながまちばし礎石そせき(2006ねん10がつ
橋供養はしくようはしひめあきら神社じんじゃ(2009ねん2がつ

広瀬ひろせきょう(ひろせばし)は、宮城みやぎけん仙台せんだいにある広瀬川ひろせがわにかかるはしである。宮城みやぎけんどう54ごう井土いど長町ながまちせんとおり、若林わかばやし河原町かわらまち太白たいはく長町ながまちむすぶ。江戸えど時代じだいには長町ながまちきょうといい、奥州おうしゅう街道かいどうとおして仙台せんだい入口いりくちにあたる重要じゅうようはしであった。また、1909ねんけられた前代ぜんだいはしは、日本にっぽんはつ鉄筋てっきんコンクリートきょうわれる。(実際じっさいには1903ねんけられた京都きょうと琵琶湖びわこ疏水そすい運河うんがだい3トンネル東口ひがしぐちのメランしきがたけたきょうだい11ごうきょう日本にっぽんはつ鉄筋てっきんコンクリートきょうであり、現存げんそんする)現在げんざいはしはしちょう126.7メートル、はしはば22メートルのはがねけたきょうである。

概要がいよう

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江戸えど時代じだいはじめに設定せっていされた奥州おうしゅう街道かいどう沿いのはしとして、長町ながまちきょう永町橋ながまちばし)のけられた。仙台せんだい城下町じょうかまち入口いりくちにあたり、大水おおみずでしばしばながされたがその都度つどえられた。みなみせっするのは長町ながまち宿やどで、その運送うんそう業者ぎょうしゃこわれてながされたはしのために橋供養はしくよういしぶみててまつった。いつのころか、はしてるときの人柱ひとばしらになったむすめのためのものという伝説でんせつまれ、はしひめあきら神社じんじゃというほこらができた。ほこら左右さゆう橋供養はしくよういしぶみとかつて長町ながまちきょうはしらえた礎石そせきがある。

1909ねん明治めいじ42ねん)に、日本にっぽんはつ鉄筋てっきんコンクリートきょうわれるはしけられ、頻繁ひんぱん破損はそんえの歴史れきしわった。1935ねんには長町ながまちまでびる仙台せんだい市電しでんのためにべつはしとなりけられた。1959ねん現在げんざいあたらしいはしができたとき、市電しでんはそのはし中央ちゅうおうとおることになった。1976ねん市電しでん廃止はいしされると、その部分ぶぶん車道しゃどうになった。

歴史れきし

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江戸えど時代じだい長町ながまちきょう

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江戸えど時代じだいはじめに奥州おうしゅう街道かいどう長町ながまちきょうとしてけられた。江戸えど時代じだい初期しょき城下町じょうかまち拡張かくちょうによって、はしわたった北岸ほくがん河原町かわらまち仙台せんだい城下じょうかみなみ入口いりくちとなった。

長町ながまちきょう大水おおみず度々たびたびながされ、そのたびけなおされた。はし右岸うがん上流じょうりゅうがわには木流きながせほり出口でぐちと、材木ざいもくげる木場きばがあり、付近ふきん運送うんそう業者ぎょうしゃ伝馬てんまかごかきなど)が多数たすうんだ。そこではたら人々ひとびとは、文政ぶんせい6ねん1823ねん)にながされたはしのために橋供養はしくよういしぶみててまつった[1]はしみなみ西側にしがわかれたもので、のち人柱ひとばしらになってめられたむすめ供養くようしたいしぶみだという伝説でんせつまれ、はしひめ供養くようともばれた。一時いちじ近所きんじょじゅうはち観音堂かんのんどううつされた。のちもと位置いちはしひめあきら神社じんじゃというほこらつくられ、橋供養はしくようはそのわきうつされた[2]

明治めいじ長町ながまちきょう

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1889ねん明治めいじ22ねん)に、煉瓦れんがづくりの橋脚きょうきゃくうえてつんだハウトラスきょうけられた[3]橋脚きょうきゃくは3あった[† 1]

次第しだい腐朽ふきゅうしたため、宮城みやぎけん明治めいじ35ねん1902ねん)に改築かいちく計画けいかくてたが、予算よさんがつかず、かりはし架設かせつした。しかしそのかりはし腐朽ふきゅうしたので、危険きけんになり、いよいよえがけられなくなった[4]

1909ねん広瀬ひろせきょう

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宮城みやぎけんははじめながさ70あいだはば3あいだながさ127メートル、はば5.5メートル)の鉄橋てっきょうえることを計画けいかくしていたが、交通こうつう増大ぞうだい将来しょうらい電気でんき鉄道てつどう敷設ふせつ考慮こうりょして、はば66しゃく6すんやく10メートル)の鉄筋てっきんコンクリートきょう変更へんこうされた。計画けいかくでは、従来じゅうらい橋台きょうだいはばひろげ、あたらしく橋脚きょうきゃくを2だい増設ぞうせつし、その拡張かくちょう増設ぞうせつ部分ぶぶんはコンクリートづくり表面ひょうめん煉瓦れんがることとした[4]

1909ねん明治めいじ42ねん)6がつ着工ちゃっこう、11月に完成かんせいしたはしは、広瀬ひろせきょうあらためた。ながさ127メートル、はば10.3メートルで、車道しゃどう歩道ほどう分離ぶんりしてもうけ、工費こうひ7まん5000えんついやした[5]材料ざいりょうのセメントは北海道ほっかいどうセメント太平洋たいへいようセメント北海道ほっかいどう工場こうじょう前身ぜんしん)、はがね八幡やはた製鉄せいてつしょ供給きょうきゅう[6]高欄こうらん東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう制作せいさくした[7]

広瀬ひろせきょう建設けんせつ当時とうじから日本にっぽん最初さいしょ鉄筋てっきんコンクリートきょうわれてきた[7]。しかし、鉄筋てっきんコンクリートきょうとしては1903ねん明治めいじ36ねん)に琵琶湖びわこだいいち疏水そすいけられただい11ごうきょうのほうがふるいようである[† 2]

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広瀬ひろせきょう併設へいせつされた軌道きどう専用せんようきょうわた仙台せんだい市電しでん
smtせんだいゆうmap写真しゃしん

1935ねん昭和しょうわ10ねん7がつ31にちに、仙台せんだい市電しでん長町ながまちせんのため、市電しでんよう軌道きどう専用せんようきょう道路どうろきょう川上かわかみならんでけられた[8]長町ながまちせん開通かいつう翌年よくねん12月11にちのことであった。

1959ねん広瀬ひろせきょう

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1909ねんはし大型おおがたしゃ通行つうこうえられなかったため、1959ねん昭和しょうわ34ねん)に2おく5000まんえんをかけてあたらしいはしえられた[† 3]。このとき複線ふくせん市電しでん軌道きどうみち中央ちゅうおうれられた。市電しでん1976ねん昭和しょうわ51ねん)に廃止はいしされたため軌道きどう撤去てっきょされ、以降いこう自動車じどうしゃ歩行ほこうしゃようはしになった。ながさ126.7メートル、はば22.0メートルのはがねけたきょうである。

1990ねんごろに、はし装飾そうしょくあらため、歩道ほどう両側りょうがわに8つのバルコニーをもうけた。ながらく国道こくどう4ごうとおしていたが、2008ねん4がつ1にちづけ広瀬ひろせ河畔かはんどおり経由けいゆして愛宕あたご大橋おおはしとおるルートに変更へんこうされたため、宮城みやぎけんどう54ごう井土いど長町ながまちせんはしとなった。

年表ねんぴょう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 杉野すぎの茂吉しげよし大窪おおくぼ菊次郎きくじろう広瀬ひろせきょう計画けいかく説明せつめいしょ」(1999年刊ねんかん仙台せんだい資料しりょうへん5(近代きんだい現代げんだい交通こうつう建設けんせつ)433ぺーじ)。なお、この計画けいかくしょにはハウトラスきょう明治めいじ24ねん架設かせつとある。
  2. ^ 仙台せんだいかんする書籍しょせきはみな1909ねん広瀬ひろせきょう最初さいしょとするが、京都きょうと市役所しやくしょのサイトが紹介しょうかいする京都きょうと山科やましなにある石碑せきひに、琵琶湖びわこだいいち疏水そすいけられた1903ねんちいさなはし日本にっぽん最初さいしょのコンクリートきょうとして記念きねんするものがある[1]
  3. ^ 仙台せんだい続編ぞくへんだい1かん408ぺーじと、1965ねん8がつ3にちづけ河北かほく新報しんぽう』に2おく5000まんえん関根せきね一郎いちろう仙台せんだいかわはし物語ものがたり』にはそう工費こうひ4おく5000まんえんとある。

出典しゅってん

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  1. ^ 三原みはら良吉りょうきち広瀬川ひろせがわ歴史れきし伝説でんせつ』90ぺーじ、115-116ぺーじ
  2. ^ 関根せきね一郎いちろう仙台せんだいかわはし物語ものがたり』78ぺーじ
  3. ^ 小倉おぐらつよし仙台せんだい市街しがいおよ土木どぼく建築けんちく」、1999年刊ねんかん仙台せんだいだい3かんべつへん1)498ぺーじ
  4. ^ a b 杉野すぎの茂吉しげよし大窪おおくぼ菊次郎きくじろう広瀬ひろせきょう計画けいかく説明せつめいしょ」(1999年刊ねんかん仙台せんだい資料しりょうへん5(近代きんだい現代げんだい交通こうつう建設けんせつ)432ぺーじ)。
  5. ^ 仙台せんだい続編ぞくへんだい1かん408ぺーじ。『河北かほく新報しんぽう』1909ねん11月25にちづけ、1999年刊ねんかん仙台せんだい資料しりょうへん5(近代きんだい現代げんだい1・交通こうつう建設けんせつ)434ぺーじ収録しゅうろく
  6. ^ 小倉おぐらつよし仙台せんだい市街しがいおよ土木どぼく建築けんちく」、『仙台せんだいだい3かんべつへん1)498ぺーじ。『河北かほく新報しんぽう』1909ねん11月25にちづけ、1999年刊ねんかん仙台せんだい資料しりょうへん5(近代きんだい現代げんだい1・交通こうつう建設けんせつ)434ぺーじ収録しゅうろく
  7. ^ a b 河北かほく新報しんぽう』1909ねん11月25にちづけ、1999年刊ねんかん仙台せんだい資料しりょうへん5(近代きんだい現代げんだい1・交通こうつう建設けんせつ)434ぺーじ収録しゅうろく
  8. ^ 関根せきね一郎いちろう仙台せんだいかわはし物語ものがたり』77ぺーじ
  9. ^ 作者さくしゃ不明ふめいみなもとさだみみぶくろだい7かん115(137ぺーじ)。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 作者さくしゃ不明ふめいみなもとさだみみぶくろ』。吉田よしだただしこころざし監修かんしゅう、「みなもとさだみみぶくろ刊行かんこうかいへんみなもとさだみみぶくろだい7かん、2007ねん、137ぺーじ
  • 小倉おぐらつよし仙台せんだい市街しがいおよ土木どぼく建築けんちく」、仙台せんだい編纂へんさん委員いいんかい仙台せんだいだい3かんべつへん1)、仙台せんだい市役所しやくしょ、1950ねん
  • 河北かわきた新報しんぽう』1909ねん11月25にちづけ、「広瀬ひろせ橋渡はしわたしきょうしき」。1999年刊ねんかん仙台せんだい資料しりょうへん5(近代きんだい現代げんだい1・交通こうつう建設けんせつ)に収録しゅうろく資料しりょう番号ばんごう280、434-435ぺーじ
  • 河北かほく新報しんぽう』1965ねん8がつ3にちづけ連載れんさい記事きじはし」の1つ。
  • 杉野すぎの茂吉しげよし大窪おおくぼ菊次郎きくじろう広瀬ひろせきょう計画けいかく説明せつめいしょ」、1908ねん。『仙台せんだい資料しりょうへん5(近代きんだい現代げんだい1・交通こうつう建設けんせつ)に収録しゅうろく資料しりょう番号ばんごう279、432-433ぺーじ
  • 関根せきね一郎いちろう仙台せんだいかわはし物語ものがたり』、そうさかえ出版しゅっぱん、1991ねんISBN 4-7952-5301-3
  • 仙台せんだい続編ぞくへん編纂へんさん委員いいんかい仙台せんだい続編ぞくへんだい1かん仙台せんだい、1969ねん
  • 仙台せんだいへんさん委員いいんかい仙台せんだい資料しりょうへん5(近代きんだい現代げんだい1・交通こうつう建設けんせつ)、仙台せんだい、1999ねん
  • 三原みはら良吉りょうきち広瀬川ひろせがわ歴史れきし伝説でんせつ』、たからぶんどう、1979ねん

関連かんれん項目こうもく

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座標ざひょう: 北緯ほくい3814ふん09びょう 東経とうけい14053ふん21びょう / 北緯ほくい38.23578 東経とうけい140.88911 / 38.23578; 140.88911