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じょあきら

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じょ あきら(ソ・フィ、서휘、1916ねん - 1993ねん)は、朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)の政治せいじ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう影響えいきょうけたのべやすぞくしていた。別名べつめいあきら

略歴りゃくれき

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1916ねん咸鏡北道ほくどうまれる。きょうじょう高等こうとう普通ふつう学校がっこう在学ざいがくちゅう学生がくせい運動うんどうおこなった。北京ぺきん亡命ぼうめいしてかんえらけん鉄夫てつお)の指導しどう抗日こうにち運動うんどう展開てんかいした。1936ねん中国共産党ちゅうごくきょうさんとう入党にゅうとう西安しーあん派遣はけんされちょうまなぶりょう東北とうほくぐん入隊にゅうたいした。がくへいれん配属はいぞくされ、地下ちか闘争とうそうすすめていた[1]のち東北とうほくぐん司令しれい警衛けいえい営第1れん指導しどういん[2]西安しーあん事件じけん参加さんか。のちにのべやすわたり、1939ねん抗日こうにち軍政ぐんせい大学だいがくだい5[3])を卒業そつぎょうしてどう大学だいがくてきこう訓練くんれんはん主任しゅにんとなった[2][4]以後いご朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐんくわわりのべやすふとしあるきさんはちぐん根拠地こんきょち活動かつどうした。終戦しゅうせん直前ちょくぜん朝鮮ちょうせん独立どくりつ同盟どうめいのべやすぶんめいいんとして朝鮮ちょうせん革命かくめい軍政ぐんせい学校がっこう活動かつどう

1945ねんまつ帰国きこく1948ねん9月の朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく建国けんこく参加さんかする。1950ねん朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐんそう政治せいじきょくふく局長きょくちょう[5]。1950ねん12月、そう政治せいじ局長きょくちょう代理だいり[6]。1952ねん8がつから1953ねん4がつ28にちまで休戦きゅうせん会談かいだん参加さんか[7]朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう平壌ぴょんやん直轄ちょっかつとう委員いいんかい委員いいんちょう朝鮮ちょうせん職業しょくぎょうそう同盟どうめい委員いいんちょうなどの要職ようしょく歴任れきにんする。1956ねん発生はっせいしたきむ日成いるそん独裁どくさい体制たいせい打倒だとうする8がつ宗派しゅうは事件じけん参加さんかする。そのいんこう弼圭きむつよしらとともに中国ちゅうごく亡命ぼうめいする。

中国ちゅうごくソ連それん干渉かんしょうにより、9月23にちの9がつ総会そうかいきむ日成いるそんは、ちぇ昌益しょうえきらの処分しょぶんについて「いそぎすぎ、いくらか軽率けいそつだった」であり、中国ちゅうごくのがれた人々ひとびととが「てきのために活動かつどうしていない」ことをみとめ、ちぇ昌益しょうえきぼくあきらだま中央ちゅうおう委員いいん資格しかくいんこう欽らの党籍とうせきをそれぞれ回復かいふくするとし、かれらが朝鮮ちょうせんもどるようにとの期待きたいべた[8]きむ日成いるそんは、ぜんとう団結だんけつし、民主みんしゅ集中しゅうちゅうせい貫徹かんてつし、より慎重しんちょう辛抱強しんぼうづよ態度たいどあやまちをおかした同志どうし教育きょういくするようびかけたが、それにつづいて労働党ろうどうとう中央ちゅうおう組織そしき部長ぶちょうかん相斗あいと労働党ろうどうとう咸鏡南道みなみどう委員いいんちょうげんせいみん平安へいあん北道ほくどう人民じんみん委員いいんかい委員いいんちょうかんやすしぜん科学かがくいん通信つうしんいんきよしげん、咸鏡南道みなみどう人民じんみん委員いいんかい委員いいんちょう維民、労働党ろうどうとう平壌ぴょんやん委員いいんちょうまつくも労働党ろうどうとう開城かいじょう委員いいんちょうあきら鈺らは事前じぜんにリハーサルをおこなったかのように、ちぇ昌益しょうえきぼくあきらだまいんこう欽、じょあきら弼圭らを集中しゅうちゅうてき批判ひはんし、最後さいご結論けつろん異口同音いくどうおんかれらの党籍とうせき回復かいふくかんする中央ちゅうおう決定けってい賛成さんせいすると表明ひょうめいした[8]

じょあきららは9がつ総会そうかい状況じょうきょうらされたのち本国ほんごく帰還きかん拒否きょひし、家族かぞく中国ちゅうごくることを北朝鮮きたちょうせん政府せいふもとめた[9]みなみソ連それん大使たいしに、政府せいふかれらの家族かぞく中国ちゅうごくきに反対はんたいしないとつたえたが、この約束やくそく実行じっこうされず、中国ちゅうごく亡命ぼうめいした幹部かんぶ二度にど家族かぞく対面たいめんせず、いかなる音信いんしんけたことはなかった[9]

情勢じょうせいわり、中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせん戦略せんりゃくてき盟友めいゆう仕立したてるため、政治せいじ経済けいざい外交がいこうなどのあらゆるめんにおいて北朝鮮きたちょうせん要求ようきゅうたすようにくした[10]。1958ねん2がつ21にちしゅう恩来おんらいちんあつし北朝鮮きたちょうせん訪問ほうもんして帰国きこく途中とちゅう瀋陽しんよういちばんとまり、遼寧りょうねいしょう幹部かんぶたいしてしゅう恩来おんらいちゅうちょう関係かんけいをどのようにさい認識にんしきするかの問題もんだいについて説明せつめいし、亡命ぼうめい幹部かんぶについて「ある時期じき一部いちぶひと中国ちゅうごくにやってきたが、かれらの説明せつめい内容ないようにもおおきなかたよりがあった。じょあきら弼圭の2人ふたりはとても悪質あくしつで、方々かたがた勝手かって発言はつげんし、朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう反対はんたいするだけでなく、ソ連それん共産党きょうさんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうにも反対はんたいしている」とはなした[11]どう時期じき中央ちゅうおう対外たいがい連絡れんらく四川しせんしょうとう委員いいんかいたいし、いんこう欽、じょあきら弼圭、金剛こんごうらを北京ぺきんから成都せいとうつして単独たんどく居住きょじゅうするよう指示しじし、その亡命ぼうめい幹部かんぶ相次あいついで瀋陽しんようなどから四川しせんしょう移住いじゅうさせられた[11]同年どうねんなつ中国共産党ちゅうごくきょうさんとうかれらを峨眉山がびさんあつめて学習がくしゅう会議かいぎひらき、それ以後いごじょあきららはかれて中国ちゅうごく内陸ないりく各地かくち定住ていじゅうすることになった[11]中国共産党ちゅうごくきょうさんとう要求ようきゅうにより、朝鮮ちょうせんから中国ちゅうごくひと接触せっしょくしないこと、国内こくない書簡しょかんおくらないこと、外部がいぶたいして朝鮮ちょうせん問題もんだいかたらないことなどについて誓約せいやくさせられた[11]中央ちゅうおう対外たいがい連絡れんらくは、当面とうめんかれらの党籍とうせき国籍こくせき問題もんだいれず、協力きょうりょくてき人間にんげん企業きぎょう行政ぎょうせい部門ぶもん一般いっぱんてき業務ぎょうむをやらせてよいが、とう政府せいふ部門ぶもん業務ぎょうむみとめないこと、かれらが結婚けっこんして所帯じょたいつことをみとめ、生活せいかつめんでは一定いってい配慮はいりょ援助えんじょおこなうという規定きていつくった[11]

1961ねん7がつ毛沢東もうたくとうきむ日成いるそんとの会談かいだんで、1956ねん北朝鮮きたちょうせんたいする内政ないせい干渉かんしょう責任せきにんいおりやま会議かいぎ失脚しっきゃくした彭徳ふところにすべてけ、「こう崗、彭徳ふところはみなフルシチョフの一派いっぱだ。彭徳ふところほおいち禹しか信用しんようせず、しょうあさはいつもかつのうまえであなたたちの悪口わるぐちったが、ことごとく反論はんろんされた。1956ねんかれらは転覆てんぷくはかり、あなたたちを分裂ぶんれつさせようとした」と非難ひなんした[12]。やがて中国共産党ちゅうごくきょうさんとう公文書こうぶんしょなかでのかれらにたいするかたを「朝鮮ちょうせん逃亡とうぼう幹部かんぶ」から「朝鮮ちょうせんはんとうセクト分子ぶんし」との表現ひょうげんえた[12]

1962ねん4がつ中央ちゅうおう対外たいがい連絡れんらくは、中国ちゅうごくにいる朝鮮ちょうせんはんとうセクト分子ぶんしとその家族かぞくたいして今後こんごすべて公安こうあん部門ぶもん統一とういつてきかん管理かんりにおくことを提案ていあんし、このなかじょあきらひろしあつしひろしきむただしうえ奎哲、ぼくげんきむしゅん中国ちゅうごく法律ほうりつ違反いはんしたため、裁判所さいばんしょによるほうさばきをけさせ、公安こうあん部門ぶもん監督かんとく辺境へんきょう地域ちいき国営こくえい農場のうじょうおくって適当てきとう仕事しごとをさせ、生活せいかつ待遇たいぐう農場のうじょう幹部かんぶ同等どうとうとし、家族かぞくとの同居どうきょみとめないとした[13]。この提案ていあん四川しせんしょう山西さんせいしょうとう委員いいんかいつたえられ、協議きょうぎ結果けっかじょあきららはソ連それんへの密入国みつにゅうこくもしくは密入国みつにゅうこくたくらんだとして逮捕たいほして有期ゆうき判決はんけつをいいわたし、じょあきら懲役ちょうえき5ねんであった[14]

湖南こなんしょうだけぜにやな農場のうじょう中国語ちゅうごくごばん隠匿いんとくしていたが、1966ねん8がつ西安しーあん療養りょうようしょ移送いそう[2]

文化ぶんかだい革命かくめいはじまるとちゅうちょう関係かんけい緊張きんちょうともない、中国ちゅうごく亡命ぼうめいしたもと幹部かんぶ待遇たいぐう次第しだい改善かいぜんされ[15]、1980年代ねんだいはいると中国ちゅうごく政府せいふかれらに中国ちゅうごく国籍こくせきあたえるなど「たのしい晩年ばんねんおくるよう」配慮はいりょした[16]

1993ねん病死びょうし[17]晩年ばんねん西安しーあんらしており、ひろしあつしひろしいえ真上まうえんでいたという[17]

出典しゅってん

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  1. ^ “불멸의 발자취(83)—서안과 락양 답사” (朝鮮ちょうせん). 吉林きつりん新聞しんぶん. (2013ねん2がつ9にち). http://www.jlcxwb.com.cn/area/content/2013-02/09/content_103225.htm 2018ねん6がつ22にち閲覧えつらん 
  2. ^ a b c おう 2018, p. 65.
  3. ^ “불멸의 발자취(77)—연안에 모인 조선혁명가들” (朝鮮ちょうせん). 吉林きつりん新聞しんぶん. (2013ねん2がつ3にち). http://www.jlcxwb.com.cn/area/content/2013-02/03/content_102923.htm 2018ねん6がつ22にち閲覧えつらん 
  4. ^ 김선호 2020, p. 187.
  5. ^ 沈志はなa 2016, p. 161.
  6. ^ 김선호 2020, p. 186.
  7. ^ *Hermes, Walter G. (1992). Truce Tent and Fighting Front. Center of Military History, United States Army. p. 539 
  8. ^ a b 沈志はなa 2016, p. 270.
  9. ^ a b 沈志はなa 2016, p. 276.
  10. ^ 沈志はなb 2016, p. 154.
  11. ^ a b c d e 沈志はなb 2016, p. 30.
  12. ^ a b 沈志はなb 2016, p. 155.
  13. ^ 沈志はなb 2016, pp. 155–156.
  14. ^ 沈志はなb 2016, p. 156.
  15. ^ 沈志はなb 2016, p. 189.
  16. ^ 沈志はなb 2016, p. 253.
  17. ^ a b 沈志はなa 2016, p. 13.

参考さんこう

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  • じょあきら”. 労働ろうどうしゃほん. 2016ねん1がつ16にち閲覧えつらん
  • おうたてひろし (2018). “あさ鲜革いのちしゃざいのべやすかつ动述论(1935—1945)”. のべやす大学だいがくがく报(社会しゃかい科学かがくばん) (のべやす大学だいがく) 40: 64-70. 
  • 김선호 (2020). “6․25전쟁기 북한 심리전의 체계와 인적 자원”. 동방학지 (국학연구원) 192: 175-206. https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002631424. 
  • 沈志はな ちょしゅけんさかえ やく最後さいごの「天朝てんちょう毛沢東もうたくとうきむ日成いるそん時代じだい中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせん じょう岩波書店いわなみしょてん、2016ねんISBN 978-4-00-023066-7 
  • 沈志はな ちょしゅけんさかえ やく最後さいごの「天朝てんちょう毛沢東もうたくとうきむ日成いるそん時代じだい中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせん 岩波書店いわなみしょてん、2016ねんISBN 978-4-00-023067-4 

関連かんれん項目こうもく

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