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8月宗派事件 - Wikipedia コンテンツにスキップ

8がつ宗派しゅうは事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
8がつ宗派しゅうは事件じけん
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 팔월 종파 사건
漢字かんじ はちがつ宗派しゅうは事件じけん
発音はつおん パルォルチョンパサコン
日本語にほんごみ: はちがつしゅうはじけん
MRしき
2000ねんしき
P'alwŏl chongp'a sakŏn
Palwol jongpa sageon
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8がつ宗派しゅうは事件じけん(はちがつしゅうはじけん)は、朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくにおいて1956ねん6がつから8がつにかけてこった政変せいへんクーデター)。事件じけん経緯けいいについてはあきらかでないてんおおい。はん宗派しゅうは闘争とうそう(はんしゅうはとうそう)とも呼称こしょうする。なお、朝鮮ちょうせんの「宗派しゅうは(チョンパ)」は日本語にほんごの「分派ぶんぱ」をす。

事件じけん経緯けいい

[編集へんしゅう]

きむ日成いるそん北朝鮮きたちょうせんとうせいぐん全権ぜんけん一身いっしんあつめるため、様々さまざま口実こうじつ手段しゅだん使つかって、南方なんぽう勢力せいりょく消滅しょうめつさせ、のべやすソ連それん幹部かんぶにも打撃だげきあたえ、要職ようしょくから次々つぎつぎ排除はいじょし、同時どうじ教条きょうじょう主義しゅぎ形式けいしき主義しゅぎへの反対はんたい主体しゅたい思想しそう確立かくりつし、イデオロギーによる決定けっていけんにした[1]だい3かいとう大会たいかいとそれにつづいた中央ちゅうおう総会そうかい朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうあたらしい中央ちゅうおう指導しどうしゃ選出せんしゅつされ、委員いいんちょうきむ日成いるそんふく委員いいんちょうちぇいさおけんぼくただしあいほおきんていいちりゅうきむあきらみつるであり、常務じょうむ委員いいんかい委員いいんきむ日成いるそんきむ枓奉ちぇいさおけんぼくただしあい金一きんいちほおきん喆、はやしうみちぇ昌益しょうえきていいちりゅう金光かねみつみなみからなり、候補こうほ委員いいんきむあきらみつる鍾玉、たかしあつしぼくよしであった[2]。11にん常務じょうむ委員いいんのうち5にん満州まんしゅうで、のメンバーのうち、ぼくただしあいみなみはすでにきむ日成いるそん陣営じんえいはいり、ていいちりゅうたような立場たちばであり、のべやすかね枓奉とちぇ昌益しょうえきだけは政治せいじめんでやや独立どくりつてき存在そんざいであった[2]候補こうほ委員いいんのうちたかしじゅん甲山こうざん鍾玉はあたらしく抜擢ばってきされたテクノクラートきむあきらまんのべやすであるがきむ日成いるそん鼓吹こすいしゃになっており、ぼくよし琓だけが中立ちゅうりつてき立場たちばであった[2]

1956ねん2がつソビエト連邦れんぽうソ連それん)にて、ニキータ・フルシチョフソ連それん共産党きょうさんとうだい20かい大会たいかいにおいてスターリン批判ひはんばれる秘密ひみつ報告ほうこくおこない、ヨシフ・スターリンにおける様々さまざま陰謀いんぼう曝露ばくろすることでスターリン様々さまざま政策せいさく個人こじん崇拝すうはい批判ひはんというかたちで批判ひはんした。このことはソ連それん衛星えいせいこくすべてにおおきな影響えいきょうあたえた。

朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくでも同年どうねん4がつひらかれた朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうだい3かい大会たいかいにおいてソ連それんから参加さんかしたレオニード・ブレジネフは、朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくにフルシチョフの路線ろせん協力きょうりょくすることをもとめた。

同年どうねん6がつきむ日成いるそんソ連それんひがしドイツルーマニアハンガリーポーランドチェコスロバキアブルガリアアルバニアモンゴル歴訪れきほうし、経済けいざい援助えんじょようとしたがおもうほどの成果せいかることはできなかった。このあいだ国内こくないでは先述せんじゅつしたスターリン批判ひはんけ、のべやすソ連それんきむ日成いるそん独裁どくさい体制たいせい修正しゅうせいするためにクーデターを計画けいかくしたとわれている。一部いちぶには武装ぶそう蜂起ほうき準備じゅんびもあったととなえるものもいるが情報じょうほうげんなどの確証かくしょうられていない。いずれにせよ、うごきと収束しゅうそくからのべやすじょあきら朝鮮ちょうせん職業しょくぎょうそう同盟どうめい委員いいんちょう)・いんこう商業しょうぎょうしょう)・ちぇ昌益しょうえき[3]ふく首相しゅしょうけん財務ざいむしょう)、ソ連それんぼくあきらだまふく首相しゅしょう)、かねうけたまわ建設けんせつしょう)、ぼくよし琓(ふく首相しゅしょうけん国家こっか建設けんせつ委員いいんちょう)などが中心ちゅうしんてき人物じんぶつだったことがわかる。

きむ日成いるそん平壌ぴょんやんはなれた直後ちょくご、6月8にちちぇ昌益しょうえきはイワノフ大使たいし会談かいだんし、とう国家こっか指導しどうにおける不健全ふけんぜん状況じょうきょうかんする見解けんかいべた[4]。7月14にちにはのべやす古参こさん幹部かんぶ建築けんちく材料ざいりょうきょく局長きょくちょう弼圭がピトロフ臨時りんじ代理だいり大使たいし会談かいだんし、きむ日成いるそん個人こじん崇拝すうはいかんする批判ひはん、すでに一部いちぶ幹部かんぶ連携れんけいして現在げんざいとう中央ちゅうおう政府せいふ指導しどう体制たいせいえる目的もくてききむ日成いるそんらにはや行動こうどうるべきだとかんがえていること、その具体ぐたいてき行動こうどう方式ほうしきつたえ、最後さいごにこの談話だんわ内容ないようについて極秘ごくひにするようねんした[5]

きむ日成いるそん政変せいへんこることを察知さっちただちに帰国きこくした。きむ日成いるそん察知さっちしたルートについてはいくつかのせつがある。クーデター首謀しゅぼうしゃらがきむ日成いるそん留守るすあいだ首相しゅしょう代理だいりであるちぇいさおけん満州まんしゅう)に協力きょうりょく要請ようせいしたところちぇいさおけん計画けいかく存在そんざいきむ日成いるそん通知つうちした、クーデター首謀しゅぼうしゃらがソ連それん大使館たいしかん協力きょうりょく要請ようせいしたところソ連それん大使館たいしかんからちぇいさおけん経由けいゆしてきむ日成いるそんつたわった、などのせつがある。

7がつ24にちぼくあきらだまみなみいえおとずれ、いきなり自身じしんちぇ昌益しょうえきかねうけたまわなどおおくの幹部かんぶもなくひらかれる中央ちゅうおう全員ぜんいん会議かいぎきむ日成いるそん指導しどう方法ほうほう個人こじん崇拝すうはいなどのあやまちをきびしく糾弾きゅうだんすることをらせ、みなみもこれに合流ごうりゅうするように説得せっとくした[6]。それから21にちから24にちにかけて、ぼくあきらだまちぇ昌益しょうえきかねうけたまわ相次あいついでソ連それん大使館たいしかんのフィラトフ参事官さんじかんい、きむ日成いるそん批判ひはん準備じゅんび活動かつどう報告ほうこくした[6]

反対はんたい活動かつどうはほとんど秘密ひみつがなく、ソ連それん大使館たいしかんにしきりに報告ほうこくをして支持しじもとめる一方いっぽういたところ遊説ゆうぜいし、はんきむ日成いるそん勢力せいりょく結集けっしゅうはかった[7]

きむ日成いるそんとその支持しじしゃ反対はんたいくらべてもっと頻繁ひんぱんソ連それん大使館たいしかんとコンタクトをった[6]。ピトロフは7がつ24にち外務省がいむしょうってみなみい、7がつ26にちにはきむ日成いるそん、7がつ28にちにはみなみぼくただしあい、8がつ1にちにはみなみ会談かいだんおこなった[6]

7がつ31にち労働党ろうどうとう中央ちゅうおう幹部かんぶ会議かいぎひらかれ、ここでほおきん喆とぼくただしあい相次あいついでおなじような内容ないよう発言はつげんをし、党内とうないたしかにきむ日成いるそん個人こじん崇拝すうはい存在そんざいし、幹部かんぶ任命にんめい罷免ひめんについて一部いちぶあやまちをおかしたとみとめたが、きむ日成いるそんたいする崇拝すうはいはスターリン崇拝すうはいのように危険きけん水域すいいきまで発展はってんしたものではなく、とうはすでにあやまちを是正ぜせいする措置そち検討けんとうしているため、個人こじん崇拝すうはい問題もんだいはこれ以上いじょう討論とうろんする必要ひつようはないとかたり、ソ連それん国籍こくせき幹部かんぶたいする批判ひはんおものべやす幹部かんぶによるもので、ソ連それん指導しどうしゃ朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう行動こうどう介入かいにゅうすることはないとした[8]2人ふたり発言はつげんは、あきらかにきむ日成いるそんんでおり、窓際まどぎわいやられたソ連それん幹部かんぶなだめ、反対はんたい分断ぶんだんはかったもので、同時どうじ不満ふまんいだ人間にんげんたいしては軽率けいそつ行動こうどうこしてもモスクワからの支持しじられないと警告けいこくしたようなものだった[8]

モスクワは4がつから5がつにかけて、ソ連それんしん路線ろせんたいするきむ日成いるそん面従腹背めんじゅうふくはい極度きょくど不満ふまんしめしたが、8がつはじめには労働党ろうどうとう内部ないぶ情勢じょうせい安定あんていさせる様々さまざま措置そちたい明確めいかく指示しじ表明ひょうめいした[8]。これはポズナン暴動ぼうどうラーコシ・マーチャーシュ引退いんたいなど不穏ふおん事件じけんつづき、再度さいど危機きき動乱どうらん発生はっせいすることをのぞまなかったためである[9]。8月13にち、ピトロフはすすんできむ日成いるそんたずね、ったばかりのソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう書簡しょかん内容ないようつたえた[10]。「党内とうない民主みんしゅとうきずつけ、とう規則きそくよわ破壊はかいする目的もくてき達成たっせい道具どうぐとして使つかわれてはならず、とう指導しどうそうおよびその機関きかん主要しゅようメンバーにたいする不信任ふしんにん感情かんじょう伝播でんぱするために利用りようされるべきではない」とかれ、この内容ないよう満足まんぞくしたきむ日成いるそんただちに党内とうないでこの書簡しょかん内容ないよう伝達でんたつし、政治せいじ闘争とうそう完全かんぜん主導しゅどうけんにぎった[10]

8がつ18にちきむ日成いるそん中央ちゅうおう常務じょうむ委員いいんかい招集しょうしゅうし、ソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう書簡しょかん説明せつめいするなかソ連それん姿勢しせいわりはじめたことをほのめかした[10]。これにちぇ昌益しょうえきつよ反発はんぱつする発言はつげんをし、きむ枓奉はやや抑制よくせいてき中央ちゅうおう常務じょうむ委員いいんかい特別とくべつ会議かいぎ招集しょうしゅうして党内とうない問題もんだい討論とうろんするようにと要望ようぼうべた[10]

8がつ21にちから23にちにかけて党内とうない状況じょうきょう討論とうろんする中央ちゅうおう常務じょうむ委員いいんかい会議かいぎひらかれた。きむ日成いるそん開幕かいまく挨拶あいさつさきちぇ昌益しょうえき発言はつげんし、党内とうない個人こじん崇拝すうはい現象げんしょう存在そんざいし、集団しゅうだん指導しどう党内とうない民主みんしゅけていると指摘してきした[10]きむ日成いるそん支持しじしゃ我先われさきにとちぇ昌益しょうえきたいする反論はんろんきびしい批判ひはんおこなった[10]。このあいだきむ日成いるそんぼくよし琓と3あいだおよ会談かいだんおこない、ほお会議かいぎ中立ちゅうりつたもつようもとめた[10]会議かいぎ最後さいごみなみちぇ昌益しょうえきたいして徹底的てっていてき批判ひはんおこない、きむ枓奉は態度たいどえてちぇ昌益しょうえき職務しょくむ罷免ひめん提案ていあんした[10]会議かいぎ最後さいごに8がつ30にち中央ちゅうおう全員ぜんいん会議かいぎ招集しょうしゅうすることを決定けっていした[10]

国家こっか安全あんぜん部門ぶもん一部いちぶ幹部かんぶたいして「警察けいさつ手段しゅだん」を使つかい、かれらの関係かんけいしゃ相次あいついで尋問じんもんけ、この状況じょうきょうぼくよし琓はソ連それん大使館たいしかん報告ほうこくした[11]ぼくよし琓とみなみ報告ほうこくいたピトロフは、会議かいぎとう指導しどうしゃたいしてった批判ひはん基本きほんてきただしいもので、発言はつげんしゃたいしてどんな過激かげき手段しゅだんってはならず、批判ひはんしゃを「敵意てきいはんとう集団しゅうだん」とめつけるのもただしくないとはなした[11]ソ連それん大使館たいしかんは、当初とうしょ反対はんたい過激かげき行動こうどうることではなく、きむ日成いるそん反対はんたいたいしていっそうきびしい手段しゅだん使つかうことを懸念けねんしていた[11]

きむ日成いるそん帰国きこく8がつ30にちから8がつ31にちにかけて朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう中央ちゅうおう委員いいんかい全体ぜんたい会議かいぎひらかれ、まずはじめに国家こっか計画けいかく委員いいんかい委員いいんちょう鍾玉と咸鏡北道ほくどう委員いいんちょう金泰根きんたいこん発言はつげんし、きむ日成いるそん礼賛らいさん以外いがいには実質じっしつてき内容ないようかった[11]つぎ発言はつげんをしたのは貿易ぼうえきしょういんこう欽で、党内とうない個人こじん崇拝すうはいなど一連いちれん重大じゅうだい深刻しんこく問題もんだい暴露ばくろし、きむ日成いるそんきむあきらみつるかん相斗あいとほおきん喆、ぼくただしあいいちきょうらを名指なざしで批判ひはんし、きむ日成いるそん個人こじん崇拝すうはい問題もんだいについてぜんとう討論とうろんすべきと提案ていあんした[12]。しかしいん発言はつげん途中とちゅう中断ちゅうだんされ、きむ日成いるそんはんとう分子ぶんしはん革命かくめい分子ぶんしつづ発言はつげんする機会きかいあたえる必要ひつようはないと提起ていきし、投票とうひょうで7にんのぞだい多数たすうはそれに賛成さんせいした[12]

大会たいかい休憩きゅうけいあいだじょあきらいんこう欽、弼圭は帰宅きたくすると、電話でんわせんがすでにられていることから危機ききてき状況じょうきょうかんじ、文化ぶんかしょうふくそうきむつよしって相談そうだんし、30にちよる軍用ぐんようしゃ運転うんてんしてちゅうちょう国境こっきょうかもみどりこう大橋おおはしかった[12][注釈ちゅうしゃく 1]国境こっきょうえたさい中国ちゅうごく国境こっきょう検閲けんえつしょめられ、そこでじょあきららは自身じしん身分みぶんかたった[14]おどろいた兵士へいしただちに上級じょうきゅう機関きかん報告ほうこくし、またその指示しじしたがっていちぎょう直接ちょくせつ北京ぺきんおくとどけた[14]しゅう恩来おんらい総理そうり瑞卿ずいきょう公安こうあん部長ぶちょう到着とうちゃく直後ちょくごかれらとい、報告ほうこく聴取ちょうしゅした[14]

休憩きゅうけい会議かいぎで、いん党籍とうせき剥奪はくだつ決議けつぎされ、反対はんたいたいする糾弾きゅうだん一辺倒いっぺんとう局面きょくめんになり、反対はんたい名指なざしで批判ひはんされ、発言はつげん機会きかいあたえられなかった。きむ日成いるそん総括そうかつ発言はつげんで、ちぇ昌益しょうえきぼくあきらだまたいする処分しょぶん措置そち提案ていあんし、一致いっちした賛同さんどう[12]よく31にち会議かいぎでは、「ちぇ昌益しょうえきいんこう欽、じょあきら弼圭、ぼくあきらだま同志どうし分派ぶんぱ陰謀いんぼう活動かつどう」にかんする決議けつぎ採択さいたくされ、かれらの罪状ざいじょう列挙れっきょされたうえとうからの除籍じょせき、すべての党内とうない職務しょくむ解任かいにんさらなる調査ちょうさ決定けっていされた[12]

会議かいぎ国家こっか全体ぜんたいだい規模きぼ捜査そうさ逮捕たいほきびしい弾圧だんあつはいった[12]ぼくあきらだまちぇ昌益しょうえき解任かいにんされたのち、それぞれ東海岸ひがしかいがん木材もくざい加工かこうじょう養豚ようとんじょう追放ついほうされ、ちゅう大使たいししょうあさたいしては英国えいこく諜報ちょうほう機関きかん関係かんけいがあるという罪名ざいめい召喚しょうかん命令めいれいした[14]検察けんさつ機関きかんちぇ昌益しょうえき弼圭、しょうあさらの罪状ざいじょうかんする証拠しょうこさがしをはじめ、すべての反対はんたい幹部かんぶ幹部かんぶ特権とっけんである物品ぶっぴん配給はいきゅう医療いりょうサービスがされ、かれらの家族かぞく警察けいさつによるきびしい監視かんしかれることになった[14]労働党ろうどうとう平壌ぴょんやん委員いいんかいふく委員いいんちょう組織そしき部長ぶちょう解任かいにんされ、民族みんぞく保衛やすえしょうふくそう金元かねもとまつ軍事ぐんじ科学かがくいんふく院長いんちょうくも奎、海軍かいぐん政治せいじふく主任しゅにん英浩えいこうは「はんとうグループ」の嫌疑けんぎ調しらべをけた[14]。すでにソ連それんへの研修けんしゅう派遣はけんされたかねうけたまわも「はんとうグループ」リーダーのぼくあきらだまちぇ昌益しょうえき密接みっせつ関係かんけいがあるという理由りゆう追及ついきゅうけ、逓信ていしんしょうふくそうきむあきら欽は「同情どうじょうしゃ」の嫌疑けんぎまれた[14]大学だいがくでもだい規模きぼ思想しそう検挙けんきょおこなわれ、きむ日成いるそん総合大学そうごうだいがくとう委員いいんちょうひろしらくゆうはやむなく中国ちゅうごく亡命ぼうめいし、おおくの教授きょうじゅ学者がくしゃ秘密ひみつ警察けいさつ連行れんこうされ、行方ゆくえ不明ふめいとなった[14]

中国ちゅうごく亡命ぼうめいしたじょあきららによって、ソ連それんちゅう大使たいししょうあさがフルシチョフに書簡しょかんおくったことで8がつ宗派しゅうは事件じけん真相しんそうつたわった[15]ソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう幹部かんぶかいは、今回こんかい事件じけん深刻しんこくなもので、ソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおうとも北朝鮮きたちょうせん指導しどうしゃ意見いけん交換こうかんをし、批判ひはん提案ていあんおこなわなければならないとした[16]。9月14にちソ連それんだいいちふく首相しゅしょうアナスタス・ミコヤン代表だいひょうだんひきいて中国共産党ちゅうごくきょうさんとうだい8かい全国ぜんこく大会たいかい出席しゅっせきするため、北京ぺきん到着とうちゃくした[16]ソ連それん代表だいひょうだん中国ちゅうごく指導しどうしゃたちは会談かいだんおこない、きむ日成いるそんあやまちを是正ぜせいし、朝鮮ちょうせん情勢じょうせい安定あんていさせるため、ちゅう両国りょうこく共同きょうどう平壌ぴょんやん代表だいひょうだん派遣はけんすることになった[17]ソ連それん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく)が共同きょうどうして異例いれい内政ないせい干渉かんしょうおこなうこととなった。9月14にち、ミコヤンと中国ちゅうごく国防こくぼうなが彭徳ふところ平壌ぴょんやん到着とうちゃく[17]朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく訪問ほうもんして再度さいど全体ぜんたい会議かいぎ開催かいさいさせ、8がつ全体ぜんたい会議かいぎ党籍とうせき剥奪はくだつされたソ連それんのべやす除名じょめい処分しょぶん撤回てっかいさせた[18]

その経過けいか

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ソ連それん中国ちゅうごく介入かいにゅうもとめたソ連それん大使たいししょうあさただちに現地げんちソ連それん亡命ぼうめいした。これは朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく最初さいしょ外交がいこうかん亡命ぼうめい事例じれいである。

10がつ中旬ちゅうじゅんから下旬げじゅんにかけて、ポーランドとハンガリーで相次あいついで危機きき発生はっせいし、フルシチョフは毛沢東もうたくとう東欧とうおう諸国しょこく問題もんだい処理しょり協力きょうりょくするよう要請ようせいし、ちゅう両国りょうこく注意ちゅういはヨーロッパにけられた[19]。これによりきむ日成いるそん反対はんたい排除はいじょ再開さいかいした[19]内部ないぶ粛清しゅくせいきむ日成いるそん総合大学そうごうだいがく重点じゅうてんひとつで、知識ちしきじん集中しゅうちゅうする大学だいがくは「はん体制たいせい」と「政治せいじ自由じゆう思想しそう」の温床おんしょう警戒けいかいされ、ちぇ昌益しょうえき本拠地ほんきょちともされた[19]校長こうちょうの兪成くん歴史れきし学部がくぶ主任しゅにんきむ正道せいどうおおくの教員きょういん批判ひはんそして解任かいにん除名じょめい対象たいしょうとなった[19]平壌ぴょんやんとう委員いいんかい建設省けんせつしょう貿易ぼうえきしょう職業しょくぎょう連盟れんめいおおくの指導しどう幹部かんぶ職務しょくむかれた[19]。このような状況じょうきょう再度さいど大量たいりょう幹部かんぶ逃亡とうぼうげきはじまり、中国ちゅうごく亡命ぼうめいした局長きょくちょうきゅう以上いじょう幹部かんぶだけで16か17にんのぼった[20]いんこう欽らにつづき、ひろしらくゆうひろしぜん改名かいめい)、人民じんみんぐんそう病院びょういんとう委員いいんちょうきむただしりゅう(楊一たいら改名かいめい)、ちゅう大使館たいしかんとう委員いいんちょう熙尚、職業しょくぎょう連盟れんめいとう委員いいんちょうかねこころざしべにかんきょう改名かいめい)、平壌ぴょんやんとう委員いいんかい組織そしき部長ぶちょうきむただしうえなどが亡命ぼうめいしゃリストにふくまれた[20]

ソ連それん研修けんしゅうちゅうかねうけたまわは、平壌ぴょんやんにいる家族かぞく迫害はくがいけているため、3にん子供こどもがモスクワに転校てんこうできるようソ連それん政府せいふ嘆願たんがんした[20]中立ちゅうりつであったぼくよし琓も「党内とうない殺気さっきちた雰囲気ふんいき」に危険きけんかんじ、ソ連それん大使館たいしかんたいしてきむ日成いるそん表面ひょうめんてきちゅう代表だいひょうだん助言じょげんれたが、そのいちぎょうったのちつづあやまちをおかしており」、おおくのことなる意見いけん幹部かんぶ解任かいにん異動いどうさせられ、ないしはとうから除名じょめいされたと不満ふまんあらわにし、このような状況じょうきょうしたほお本人ほんにんソ連それん国籍こくせきソ連それん共産きょうさん党員とういんせき回復かいふくおよソ連それん帰還きかん要求ようきゅうするとうったえた[20]

1957ねん6がつはんとうグループ事件じけんこるが、これは兄貴あにきぶんソ連それん反対はんたい中央ちゅうおう委員いいんかいから除名じょめいできるのなら朝鮮ちょうせん労働ろうどうのやりかた間違まちがいではないとして、きむ日成いるそん反対はんたい排除はいじょする手本てほん口実こうじつ提供ていきょうした[21]。7月4にち朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう常務じょうむ委員いいんかい会議かいぎひらき、ソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおうはんとう集団しゅうだんかんする決議けつぎたいする完全かんぜん支持しじ表明ひょうめいし、決議けつぎ下部かぶとう組織そしき伝達でんたつすることを決定けっていした[21]

朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうソ連それん態度たいどさぐりをれ、7がつ5にちみなみソ連それん大使たいしたいしてはんとうグループ事件じけんは8がつ宗派しゅうは事件じけんおな性格せいかくだと関連付かんれんづけ、モスクワの批判ひはんけた粛清しゅくせいについて弁明べんめいかえしをこころみた[22]ソ連それん大使たいし異議いぎ提起ていきしたが、ソ連それん批判ひはんがかなりよわまっていることを確認かくにんしたきむ日成いるそんは、朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとうないあらたに反対はんたい排除はいじょはじめた[22]

1957ねん8がつ6にちづけ労働ろうどう新聞しんぶん社説しゃせつ掲載けいさいし、9がつ全員ぜんいん会議かいぎ以来いらいはじめておおやけちぇ昌益しょうえきいんこう欽、じょあきら弼圭、ぼくあきらだまはんとう宗派しゅうは分子ぶんしび、かれらは前年ぜんねんの8がつ全員ぜんいん会議かいぎ摘発てきはつされたのち表向おもてむきは中央ちゅうおう服従ふくじゅうする姿勢しせいせながらうらでは陰謀いんぼう活動かつどうつづけたとし、あたらしい事実じじつ証明しょうめいしたことは、8がつ全員ぜんいん会議かいぎ決議けつぎ完全かんぜんただしいものであると主張しゅちょうした。さらにぜんとうたいしてつづ党員とういん大衆たいしゅうあいだはんとう宗派しゅうは分子ぶんしつみ暴露ばくろし、かれらののこった害毒がいどく徹底的てっていてき排除はいじょするために奮闘ふんとうせよとびかけた[22]

1957ねん9がつはじめ、ちぇ昌益しょうえきぼくあきらだま刑務所けいむしょりとなった[22]

1957ねん10がつ17にちから19にちまでひらかれた労働党ろうどうとう中央ちゅうおう全員ぜんいん会議かいぎは、ぜん建設けんせつしょうきんうけたまわ保守ほしゅ分子ぶんしはんとう分子ぶんし批判ひはんし、建設けんせつ指導しどう部門ぶもんで「全面ぜんめんてき改組かいそ」をおこなうこと、ちぇ昌益しょうえきぼくあきらだま結託けったくしてはんとう活動かつどうおこなったぜんちゅうソ連それん大使たいししょうあさ党籍とうせき剥奪はくだつという2つの決議けつぎ採択さいたくした[23]

きむ日成いるそんのやりかた最終さいしゅうてきにモスクワの黙認もくにんたが、一方いっぽう中国ちゅうごくへの対応たいおうわすれず、中国ちゅうごくとの関係かんけいにかなりくばり、えず北京ぺきん友好ゆうこうてきなシグナルをおくった[23]

全面ぜんめんてき宗派しゅうは分子ぶんし批判ひはんはじまってから1958ねん7がつまでに3912にんとうから除籍じょせきされ、その大半たいはんちぇ昌益しょうえき支持しじしゃのレッテルがられた[24]

1958ねん3がつとう中央ちゅうおう全員ぜんいん会議かいぎ招集しょうしゅうされ、この会議かいぎ金光かねみつ大将たいしょうは、56ねん一部いちぶ部隊ぶたいがクーデターを計画けいかくしていたことを報告ほうこくした[25]。これによりだい4軍団ぐんだんでは満州まんしゅうちぇさとし喆をのぞいた軍団ぐんだんちょう参謀さんぼうちょうらが逮捕たいほ拘禁こうきんされた[26]

1958ねんあきソ連それん幹部かんぶたいするあらたな逮捕たいほはじまり、ぼくよし琓をふくむ4にんから5にんもとソ連それんせき大物おおもの幹部かんぶ粛清しゅくせいされ、よりおおくは辺境へんきょう地域ちいき追放ついほうされ、もしくは降格こうかくさせられた[24]おおくのソ連それんから幹部かんぶソ連それん帰還きかんえらんだ[24][注釈ちゅうしゃく 2]

とう政府せいふない粛清しゅくせい広範囲こうはんいおよび、北朝鮮きたちょうせんない勢力せいりょく関係かんけい権力けんりょく構造こうぞう根本こんぽんてき変化へんかした[28]のべやすはほぼ全員ぜんいん粛清しゅくせいされ、中国ちゅうごく亡命ぼうめいしたいんこう欽、じょあきらきむつよし、楊界とソ連それん亡命ぼうめいしたしょうあさ以外いがい閣僚かくりょう経験けいけんしゃおよだい1~3かいとう大会たいかい中央ちゅうおう委員いいん候補こうほ委員いいん検査けんさ委員いいんだったきむ枓奉、ちぇ昌益しょうえきぼく勲一くんいちかねみんやまちんはんしゅうけんたけきむつよしりん高峯たかみねおこりちょうすぐる維民、げんせいみんぼくしげるはやしかいちょう平山ひらやまぼく孝三こうぞうきむきょうえいやなぎぶんはなかんあきらきむかんちゅうなどが粛清しゅくせいまたは行方ゆくえ不明ふめいとなり、もと貞淑ていしゅくとうから除名じょめいされた[28]のこったのはきむあきらみつるかわ仰天ぎょうてんきむひろし鎮、きむ昌徳まさのり程度ていどであった[28]

ソ連それんだい部分ぶぶんじゅう国籍こくせき維持いじしたので、一部いちぶ粛清しゅくせい行方ゆくえ不明ふめいとなり、相当そうとうすうソ連それん帰国きこくした[28]ぼくあきらだまぼくよし琓、ぼく一英いちえいちぇ鍾学、もとあきらこう熙萬、ちぇてつ煥、きむあきら禹、ぼくあきらうえ熙俊、きむれつじょはるうえきむあずまあきらもとえききむ春山はるやま金澤かなざわおよげいさむせき粛清しゅくせいまたは行方ゆくえ不明ふめいとなり、かねうけたまわかん一武いちぶぼくえいあきらかねあさひきむ燦、兪成あきら、兪成くんきょうしょう鎬、ていしょうすすむせきぶくぼくよしりゅうちぇはじめぶんなどが亡命ぼうめいまたは帰国きこくした[28]のこった高位こうい指導しどうしゃみなみほうまなぶ程度ていどである[28]

国内こくないけい粛清しゅくせい量的りょうてきにものべやすソ連それんはるかにしのいだ[28]労働党ろうどうとう以外いがい民主党みんしゅとうあおともとう出身しゅっしん閣僚かくりょう群小ぐんしょう政党せいとう出身しゅっしんしゃ粛清しゅくせいされ、のこったのはほおぶんけいちぇもとさわ程度ていどであった[28]

この影響えいきょう最高さいこう人民じんみん会議かいぎ1959ねんまでに定数ていすうの4ぶんの1が粛清しゅくせいされたため、補欠ほけつ選挙せんきょおこなわれたほどである。

国内こくないでは、粛清しゅくせい開始かいしまえ懐柔かいじゅうされていたきむあきらみつるのべやす。8月宗派しゅうは事件じけんの10ねん粛清しゅくせい)・みなみソ連それん。8月宗派しゅうは事件じけんの20ねんきむ日成いるそん後継こうけいしゃあらそいで、きむ正日じょんいるのライバルであるおとうときむ平一へいいち後見こうけんやくいたが交通こうつう事故死じこし)など少数しょうすう幹部かんぶだけがのこることができた。そして、この一連いちれん政変せいへん逆手さかていちしゅカウンター・クーデター成功せいこうさせたきむ日成いるそん満州まんしゅう国外こくがい抗日こうにちパルチザン)と甲山こうざん国内こくない抗日こうにちパルチザン。のちにのべやすソ連それん同様どうよう粛清しゅくせいされる)が権力けんりょくをほぼ独占どくせんするようになった。

その1956ねん12月からきむ日成いるそん千里せんりうま運動うんどうばれる経済けいざい政策せいさくによる大衆たいしゅう動員どういんすすめた。8月宗派しゅうは事件じけんをきっかけに内政ないせいてきにはきむ日成いるそんおよ満州まんしゅうへの権力けんりょく集中しゅうちゅうすすめてソ連それん中国ちゅうごく影響えいきょう排除はいじょしつつも対外たいがいてきにはあさ友好ゆうこう協力きょうりょく相互そうご援助えんじょ条約じょうやくちゅうちょう友好ゆうこう協力きょうりょく相互そうご援助えんじょ条約じょうやく軍事ぐんじ同盟どうめいむすんでちゅうソとの決定的けっていてき対立たいりつ回避かいひすることによって朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく指導しどう独自どくじ路線ろせんすすむこととなった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ じょあきららの失踪しっそう報告ほうこくけたきむ日成いるそんは、韓国かんこく亡命ぼうめいすると勘違かんちがいしたのかみなみつうじるすべてのみち遮断しゃだんしろとめいじたという[13]
  2. ^ 兪成あきらによれば、粛清しゅくせいされはん強制きょうせいてきソ連それんわれた人々ひとびとかれらの家族かぞくふくめ400にんえた[27]

出典しゅってん

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  1. ^ 沈志はなa 2016, p. 215.
  2. ^ a b c 沈志はなa 2016, p. 241.
  3. ^ 北朝鮮きたちょうせん現代げんだい理解りかいのため、粛清しゅくせいされた人物じんぶつ研究けんきゅうを」 朝鮮日報ちょうせんにっぽう 2009/03/08 閲覧えつらん
  4. ^ 沈志はなa 2016, p. 244.
  5. ^ 沈志はなa 2016, p. 245.
  6. ^ a b c d 沈志はなa 2016, p. 247.
  7. ^ 沈志はなa 2016, p. 252.
  8. ^ a b c 沈志はなa 2016, p. 248.
  9. ^ 沈志はなa 2016, pp. 248–249.
  10. ^ a b c d e f g h i 沈志はなa 2016, p. 249.
  11. ^ a b c d 沈志はなa 2016, p. 250.
  12. ^ a b c d e f 沈志はなa 2016, p. 251.
  13. ^ 東亜日報とうあにっぽう & 韓国日報かんこくにっぽう, p. 281.
  14. ^ a b c d e f g h 沈志はなa 2016, p. 256.
  15. ^ 沈志はなa 2016, pp. 256–259.
  16. ^ a b 沈志はなa 2016, p. 261.
  17. ^ a b 沈志はなa 2016, p. 265.
  18. ^ 平岩ひらいわ俊司しゅんじ北朝鮮きたちょうせん変貌へんぼうつづける独裁どくさい国家こっか中公新書ちゅうこうしんしょ、2013ねん、57-59ぺーじ
  19. ^ a b c d e 沈志はなa 2016, p. 277.
  20. ^ a b c d 沈志はなa 2016, p. 278.
  21. ^ a b 沈志はなb 2016, p. 11.
  22. ^ a b c d 沈志はなb 2016, p. 12.
  23. ^ a b 沈志はなb 2016, p. 13.
  24. ^ a b c 沈志はなb 2016, p. 41.
  25. ^ 東亜日報とうあにっぽう & 韓国日報かんこくにっぽう, p. 295.
  26. ^ 東亜日報とうあにっぽう & 韓国日報かんこくにっぽう, p. 297.
  27. ^ 東亜日報とうあにっぽう & 韓国日報かんこくにっぽう, p. 155.
  28. ^ a b c d e f g h じょひがしばん 1995, p. 482.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 東亜日報とうあにっぽう,韓国日報かんこくにっぽう へん ちょみんもと やくきむ日成いるそん その衝撃しょうげき実像じつぞう講談社こうだんしゃ、1992ねんISBN 4-06-205863-4 
  • 沈志はな ちょしゅけんさかえ やく最後さいごの「天朝てんちょう毛沢東もうたくとうきむ日成いるそん時代じだい中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせん じょう岩波書店いわなみしょてん、2016ねんISBN 978-4-00-023066-7 
  • 沈志はな ちょしゅけんさかえ やく最後さいごの「天朝てんちょう毛沢東もうたくとうきむ日成いるそん時代じだい中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせん 岩波書店いわなみしょてん、2016ねんISBN 978-4-00-023067-4 
  • じょひがしばん北朝鮮きたちょうせんにおける社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい成立せいりつ1945-1961』1995ねんNAID 500000147908 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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