ちゅうさだおう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ちゅうさだおう(たださだおう、ひろしひとし11ねん820ねん) - もとけい8ねん8がつ27にち884ねん9がつ20日はつか))は、平安へいあん時代じだい初期しょきから前期ぜんきにかけての皇族こうぞく桓武かんむ天皇てんのう皇孫こうそんひん賀陽かよう親王しんのう官位かんいせいよん参議さんぎ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

文徳ふみのりあさすえてんやす2ねん858ねんせいおうかげにより无位からしたがえよん直叙ちょくじょされる。

さだかん3ねん861ねん大学だいがくあたまさだかん5ねん863ねん中務なかつかさ大輔だいすけ清和せいわちょう初頭しょとうきょうかん歴任れきにんする。さだかん6ねん864ねん摂津せっつもりにんぜられて地方ちほうかんに遷り、任期にんきちゅうさだかん9ねん867ねんしたがえよんじょうじょせられる。さだかん12ねん870ねんたま正大せいだいとして一時いちじきょうかんふくすが、さだかん13ねん871ねん大和やまとまもるさだかん14ねん872ねん播磨はりままもるさだかん19ねん877ねんせいよん河内かわうちまもる清和せいわちょう後半こうはんから陽成ようぜいあさ初頭しょとうにかけてふたた地方ちほうかん歴任れきにんした。

もとけい3ねん879ねん参議さんぎにんぜられ公卿くぎょうれっし、政官せいかんとして宮内卿くないきょう刑部おさかべきょうなどをねた。もとけい8ねん884ねん)8がつ27にち卒去そっきょ享年きょうねん65。最終さいしゅう官位かんい参議さんぎ刑部おさかべきょうせいよん兼行けんこう近江おうみまもる

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

容貌ようぼう非常ひじょうみにくかったが、高邁こうまいこころざしっていた。おさなころから大学だいがくまなび、『五経ごきょう』はあらかた読破どくはしていた。官吏かんりとしての才能さいのうすぐれていると称賛しょうさんされ、地方ちほうかん歴任れきにんしたが、硬軟こうなんそなえた政治せいじによりみん上手うま統制とうせいした。また美声びせい朝廷ちょうていもっとすぐれているとわれたという[1]

かんれき[編集へんしゅう]

注記ちゅうきのないものは『ろく国史こくし』による。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 公卿くぎょう補任ほにん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]