しん思考しこう

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あらたな政治せいじてき思考しこうしん思考しこう(あらたなせいじてきしこう、しんしこう、Новое политическое мышление, новое мышление)とは、ソ連それんにおける改革かいかく政策せいさく一環いっかんとしてミハイル・ゴルバチョフ(Михаил Горбачев)が提唱ていしょうした教義きょうぎである。資本しほん主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎあいだの、和解わかい不能ふのう対立たいりつというマルクス・レーニン主義しゅぎ概念がいねんではなく、地球ちきゅう規模きぼ問題もんだい解決かいけつするための共通きょうつう道徳どうとくてきおよび倫理りんりてき原則げんそくもとづいた外交がいこう政策せいさく追求ついきゅうしたゴルバチョフの標語ひょうごであった[1]1987ねん、ゴルバチョフは「Перестройка и новое политическое мышление」(「ペレストロイカとあらたな政治せいじてき思考しこう」)とだいした著書ちょしょ出版しゅっぱんした[2]1988ねん12月7にち、ミハイル・ゴルバチョフはニューヨークを訪問ほうもんし、だい43かい連合れんごうこく総会そうかい演説えんぜつおこない、ソ連それん最近さいきん変化へんかについてかたったのち、ひがしヨーロッパおよび中国ちゅうごくとの国境こっきょう沿いに駐留ちゅうりゅうしているソ連それんぐん大幅おおはば削減さくげんする趣旨しゅし発表はっぴょうした[3]1985ねん3がつソ連それん共産党きょうさんとう書記しょきちょう就任しゅうにんしたミハイル・ゴルバチョフは、従来じゅうらいソ連それん指導しどうしゃとはことなっていた。かれモスクワ大学だいがく卒業そつぎょうし、キリスト教徒きりすときょうと家庭かていそだち、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)の死後しご成人せいじんむかえた。粛清しゅくせいわすれられない記憶きおくなやまされたり、厳格げんかくなマルクス・レーニン主義しゅぎ思想しそうおしまれてはいない。ゴルバチョフの世代せだいは、その前任ぜんにんしゃよりも西側にしがわにはるかに精通せいつうしており、えつつある高学歴こうがくれき専門せんもん階級かいきゅうは、生活せいかつ水準すいじゅん向上こうじょうさせ、ソ連それん困難こんなん経済けいざい状況じょうきょう対処たいしょできるようにするための改革かいかく政策せいさく要求ようきゅうした[4]1980年代ねんだいなかばの時点じてんで、ソ連それん経済けいざい深刻しんこく課題かだい直面ちょくめんしていた。長年ながねんにわたる集中しゅうちゅう統制とうせい経済けいざい停滞ていたいをもたらし、ソ連それん経済けいざいはアメリカの軍備ぐんび増強ぞうきょう対抗たいこうしようとして緊張きんちょう状態じょうたいにあった。1986ねん開催かいさいされただい27かいとう大会たいかいで、ゴルバチョフは2つの提言ていげん発表はっぴょうした。1つ経済けいざい完全かんぜんさい構築こうちくである「ペレストロイカ」(Перестройка)、2つは「グラースノスチ」(Гласность)であった。前者ぜんしゃ農業のうぎょう産業さんぎょう民営みんえい利益りえき刺激しげき用意ようい価格かかく設定せってい国内こくない取引とりひき管理かんりのための市場いちば経済けいざい制度せいどへのみちひらくことになった。ゴルバチョフの提言ていげんたいし、ソ連それん国民こくみんあたたかくれたが、ソ連それん共産党きょうさんとう指導しどうはこの変化へんか疑問ぎもんいだつづけた[4]。ゴルバチョフの「しん思考しこう」は、ソ連それん外交がいこう政策せいさくにも影響えいきょうおよぼした。経済けいざい改革かいかく継続けいぞくし、ペレストロイカとグラースノスチを実施じっしするにあたり、ソ連それんちょう大国たいこくあいだ冷戦れいせん競争きょうそう減速げんそくさせようとして多大ただい費用ひようをかけた[4]

1987ねんなつわり、ヨーロッパにおける中距離ちゅうきょり核兵器かくへいきかんする長年ながねん懸案けんあん事項じこうについて、ソ連それん譲歩じょうほした。同年どうねん12がつ、ワシントンでおこなわれた首脳しゅのう会談かいだんにおいて、ロナルド・リーガン(Ronald Reagan)とゴルバチョフは「中距離ちゅうきょりかく戦力せんりょく全廃ぜんぱい条約じょうやく」に署名しょめいし、ヨーロッパから、弾道だんどうミサイルおよび巡航じゅんこうミサイルはすべ廃棄はいきされることになった[1]

ゴルバチョフはソ連それん軍事ぐんじりょく誇示こじするわりに、外交がいこう関係かんけい経済けいざい協力きょうりょく強化きょうかし、国内外こくないがい国民こくみん衝動しょうどうてき挨拶あいさつ言葉ことばをかけることによって、政治せいじてき影響えいきょうりょく行使こうしえらんだ。ゴルバチョフは世界せかい各国かっこく報道ほうどう機関きかん存在そんざいたくみに利用りようし、地域ちいき紛争ふんそう解決かいけつ兵器へいき交渉こうしょうにおいて、以前いぜんソ連それんにおいては想像そうぞうもできなかった譲歩じょうほ実施じっしした[1]。ゴルバチョフは、共産きょうさん主義しゅぎ脅威きょういにさらされている場合ばあいソ連それんによる軍事ぐんじ介入かいにゅう実施じっしする「ブレジネフ・ドクトリン」(Доктрина Брежнева)を否定ひていした[4]。「ブレジネフ・ドクトリン」は、中央ちゅうおうヨーロッパおよびひがしヨーロッパにおけるソ連それん影響えいきょうりょくつよくににおいて、「『社会しゃかい主義しゅぎ制度せいど崩壊ほうかい』の脅威きょういはすべての国々くにぐにたいする脅威きょういである」とし、そのくにたいする軍事ぐんじ介入かいにゅう正当せいとうするソ連それん外交がいこう政策せいさくであった。1968ねん8がつ20日はつか深夜しんやソ連それん主導しゅどうするワルシャワ条約じょうやく機構きこう加盟かめいこくによる連合れんごうぐんチェコスロヴァキアに軍事ぐんじ侵攻しんこう翌日よくじつあさまでにチェコスロヴァキア全土ぜんど占領せんりょうし、これを正当せいとうするためにもちいられた[5]1968ねん6月27にちソ連それん外務がいむ大臣だいじんアンドレイ・グロムイコ(Андрей Громыко)は、ソ連それん最高さいこう会議かいぎにおいて、「社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうは、その構成こうせい国家こっかのいずれかが連邦れんぽうから離脱りだつしようとする場合ばあい、それを容認ようにんしない」と発表はっぴょうした[6][7]1956ねんハンガリー動乱どうらん鎮圧ちんあつ1968ねんのチェコスロヴァキアへの軍事ぐんじ侵攻しんこう1979ねんのアフガニスタンへの軍事ぐんじ侵攻しんこう正当せいとうする目的もくてきでこの論理ろんりもちいられてきた。

1989ねん10月24にちソ連それん外務がいむ大臣だいじんエドゥアルド・シェワルナゼはワルシャワ条約じょうやく機構きこう外務がいむ大臣だいじん定例ていれい会議かいぎ出席しゅっせきするため、ポーランドを訪問ほうもんした。かれは、ワルシャワ条約じょうやく機構きこう軍事ぐんじてき組織そしきではなく、より政治せいじてき組織そしきになることをのぞんでいる趣旨しゅし記者きしゃだんかたった。かれは「ワルシャワ条約じょうやく機構きこうNATO両方りょうほう段階だんかいてき廃止はいしできるようにしたい」とかたった[8]1989ねん10月25にち、ミハイル・ゴルバチョフがフィンランドを訪問ほうもんした。ゴルバチョフにしたがったソ連それん外務省がいむしょう報道ほうどうかんゲンナジー・ゲラシモフロシアばん記者きしゃ会見かいけんおこない、記者きしゃだんたいし、「『My Way』というきょくっているか」「ブレジネフ・ドクトリンはんだ」と発言はつげんした[8]

1988ねんあき、ゴルバチョフはニューヨークを訪問ほうもんし、連合れんごうこく会議かいぎで「ブレジネフ主義しゅぎ廃止はいしする」趣旨しゅしべ、「我々われわれひがしヨーロッパにおける社会しゃかい主義しゅぎ勢力せいりょく維持いじするつもりはい」と宣言せんげんした。ソ連それん国家こっか保安ほあん委員いいんかい分析ぶんせきそう局長きょくちょう中将ちゅうじょうニコライ・セルゲーエヴィチ・レオーノフロシアばんによれば、「『ブレジネフ・ドクトリン』はかなりはやくに廃止はいしされたが、ソ連それんにはもはやこれを実行じっこうするだけのちからいことを理知的りちてき人々ひとびと理解りかいしていたからだ」という[9]1980ねんラウル・カストロ(Raúl Castro)がモスクワ招待しょうたいされたさい、「ソ連それんはキューバのためにたたかうことはいだろう」とわれ、ラウルはこの回答かいとう唖然あぜんとした。1981ねん、ポーランドにて、反共はんきょう主義しゅぎ組織そしき独立どくりつ自主じしゅ管理かんり労働ろうどう組合くみあい連帯れんたい結成けっせいされたさいヴォイチェフ・ヤルゼルスキ(Wojciech Jaruzelski)は「戒厳かいげんれい布告ふこくするつもりなのですが、ソ連それんはこれを支持しじしますか?」とたずねた。これにたいし、ミハイル・スースロフ(Михаил Суслов)は「くにはそちらに軍事ぐんじ支援しえん提供ていきょうすることはできない」とこたえた。レオーノフによれば、ゴルバチョフがニューヨークにて前述ぜんじゅつ声明せいめい発表はっぴょうした時点じてんで、「ブレジネフ・ドクトリンはもはや放棄ほうきされていたのだ」という[9]

一方いっぽうで、ゴルバチョフ自身じしん依然いぜんとして社会しゃかい主義しゅぎしんじており、同時どうじ経済けいざい危機きき継続けいぞくによってこりうる破綻はたんからソ連それんすくおうとしていた[4]。ゴルバチョフの「しん思考しこう」にはしはっしたおおくの改革かいかく政策せいさくソ連それんすくうために計画けいかくされたものであったが、最終さいしゅうてきにはソ連それん崩壊ほうかいにつながった。ゴルバチョフの政策せいさく冷戦れいせん終結しゅうけつ重要じゅうよう役割やくわりたした[4]

ソ連それんとヨーロッパの関係かんけいはゴルバチョフの時代じだいおおきく改善かいぜんしたが、これは前述ぜんじゅつ中距離ちゅうきょりかく戦力せんりょく全廃ぜんぱい条約じょうやく締結ていけつと、1989ねんから1990ねんにかけてのひがしヨーロッパにおける共産きょうさん体制たいせい崩壊ほうかいたいし、ソ連それん黙認もくにんしたおかげであった。1968ねん8がつチェコスロヴァキアへの軍事ぐんじ侵攻しんこう以来いらいソ連それん社会しゃかい主義しゅぎ国家こっか秩序ちつじょ維持いじする「ブレジネフ・ドクトリン」を堅持けんじしてきた。ゴルバチョフ政権せいけん前半ぜんはんまでは、ソ連それんはこの姿勢しせい継続けいぞくしたが、1989ねん7がつ欧州おうしゅう評議ひょうぎかいにてゴルバチョフは演説えんぜつおこない、「各国かっこく国民こくみんみずからの社会しゃかい制度せいど選択せんたくできる主権しゅけんてき権利けんり」を主張しゅちょうした。しかしながら、この時点じてんソ連それんによる支配しはいはすでに崩壊ほうかいきざしをせていた[1]

1980年代ねんだい後半こうはん、ゴルバチョフはソ連それん国民こくみん生活せいかつ水準すいじゅん向上こうじょうさせ、アメリカとのしん時代じだい到来とうらいげることを目的もくてきに、ソ連それん社会しゃかい制度せいど経済けいざい外交がいこう政策せいさく変更へんこうしていった。しかしながら、かれの「しん思考しこう」の累積るいせきてき影響えいきょうは、冷戦れいせん終結しゅうけつはやめただけでなく、やがてはソ連邦それんぽう崩壊ほうかいはやめることになった[4]

1991ねん1がつ13にちリトアニアヴィリニュスソ連それん軍事ぐんじ侵攻しんこう[10][11]すくなくとも14にんソ連それんぐんころされた[12][13]1990ねん3月11にち、リトアニア共和きょうわこく最高さいこう評議ひょうぎかいはリトアニア国家こっか独立どくりつ回復かいふく宣言せんげんした。ソ連それんはリトアニアの決定けっていたいし、軍事ぐんじりょくによる威嚇いかく誇示こじつづけた[12]1991ねん1がつ10日とおか、ミハイル・ゴルバチョフはリトアニア共和きょうわこく最高さいこう評議ひょうぎかい最後さいご通牒つうちょう書簡しょかんおくり、1990ねん3月11にち以前いぜん状態じょうたいもどすよう要求ようきゅうしたが、リトアニア共和きょうわこく最高さいこう評議ひょうぎかいはゴルバチョフの要求ようきゅう拒否きょひした[12]

2019ねん3月、リトアニアの裁判所さいばんしょは、1991ねん軍事ぐんじ侵攻しんこうおこなわれた犯罪はんざいで、ソ連それんぐん将校しょうこうソ連それん当局とうきょくしゃ67にんたいし、「戦争せんそう犯罪はんざいおよび人道じんどうたいするつみ」を理由りゆうとして有罪ゆうざい判決はんけつくだした[14]。ロシアが法廷ほうていへの協力きょうりょく拒否きょひしたことで欠席けっせきしたいちめいのぞいて、全員ぜんいん懲役ちょうえきけい宣告せんこくされた[13]。しかしながら、ロシアとベラルーシは容疑ようぎしゃわたしを拒否きょひし、被告人ひこくにん大半たいはん法廷ほうてい出廷しゅっていせず、欠席けっせき裁判さいばんとなったため、かれらのけい執行しっこうされる可能かのうせいきわめてひく[15]。ゴルバチョフは起訴きそされなかったが、証言しょうげんについては拒否きょひつづけている。また、ゴルバチョフにたいする民事みんじ訴訟そしょうつづいており、「ぐん指揮しきする立場たちばにあったゴルバチョフは、流血りゅうけつ事態じたいふせぐにあたり、なにもしようとしなかった」と明記めいきされた[14]

リトアニアじん心理しんり学者がくしゃ、ロベルタス・ポヴィライティス(Robertas Povilaitis)は、1991ねん1がつ軍事ぐんじ侵攻しんこう父親ちちおやソ連それんぐんころされた。ロベルタスは「世界せかいかれ善行ぜんこう記憶きおくしているが、それとおなじくらい重要じゅうようなのは、ゴルバチョフが戦争せんそう犯罪はんざい人道じんどうたいするつみ関与かんよしたことだ」とゴルバチョフを非難ひなんした[14]2022ねん8がつ30にち、ミハイル・ゴルバチョフはんだ。その欧州おうしゅう委員いいんかい委員いいんちょうウルズラ・フォン・デア・ライエン(Ursula von der Leyen)はゴルバチョフについて「信頼しんらい尊敬そんけいあつめる指導しどうしゃ」とんだ。これについて、ポヴィライティスは「リトアニア、ラトヴィア、エストニアは、EUの正式せいしき加盟かめいこくであるにもかかわらず、このおとこ現在げんざいのEU国民こくみん虐殺ぎゃくさつ組織そしき加担かたんしたということについて、彼女かのじょはまるで理解りかいできていない」と非難ひなんしている[16]。リトアニアの国防こくぼう大臣だいじん、アルヴィダス・アヌサウスカス(Arvydas Anusauskas)は、「平和へいわてき抗議こうぎ活動かつどうたいし、容赦ようしゃ弾圧だんあつめいじた犯罪はんざいしゃだ」とだんじ、ゴルバチョフを非難ひなんした[16]。リトアニアの外務がいむ大臣だいじん、ガブリエリウス・ランズベルギス(Gabrielius Landsbergis)は、「リトアニアじんはゴルバチョフを美化びかすることはないだろう」「ゴルバチョフ政権せいけんくに占領せんりょう延長えんちょうするために民間みんかんじん殺害さつがいした。この事実じじつだけをもってしても、けっしてわすれることはない」「ゴルバチョフの軍隊ぐんたいは、武装ぶそう抗議こうぎ参加さんかしゃたちに発砲はっぽうし、戦車せんしゃ下敷したじきにしてつぶした。ゴルバチョフのことをおもさいには、このことをわすれない」といた[16]

この軍事ぐんじ侵攻しんこうについて、ゴルバチョフは「リトアニア政府せいふ責任せきにんがある」と非難ひなんした[11]

1991ねん1がつ侵攻しんこう当時とうじ、リトアニアの当局とうきょくしゃは、「ソ連それんぐんによる襲撃しゅうげきは、民主みんしゅてき選出せんしゅつされたリトアニア政府せいふたたつぶすために綿密めんみつ計画けいかくされた作戦さくせんであり、その計画けいかく概要がいようについて、ミハイル・ゴルバチョフは事前じぜんっていた、と確信かくしんしている」と明言めいげんした[17]欧州おうしゅう外交がいこう問題もんだい評議ひょうぎかい英語えいごばん上級じょうきゅう政策せいさく研究けんきゅういんカドリ・リークエストニアばんは「ゴルバチョフはバルトさんこく独立どくりつには反対はんたいしていた」とべた[18]

ボリス・イェリツィン(Борис Ельцин)は、ソ連それんぐんによるリトアニアへの侵攻しんこうつよ非難ひなんした。1991ねん9月7にち、ロシアの大統領だいとうりょう選出せんしゅつされたイェリツィンは、リトアニア、エストニア、ラトヴィアの独立どくりつ正式せいしき承認しょうにんした[13]

リトアニア当局とうきょくは、1992ねん以来いらい、ゴルバチョフからなんとなく証言しょうげんようとしたが、検察庁けんさつちょう裁判所さいばんしょからの正式せいしき要請ようせいであっても無視むし拒否きょひされた。ゴルバチョフは証言しょうげん拒否きょひつづけた[15]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  2. ^ Горбачев М. С. Перестройка и новое мышление для нашей страны и всего мира — М.: ИПЛ, 1987
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  4. ^ a b c d e f g Gorbachev and New Thinking in Soviet Foreign Policy, 1987-88”. The United States Department of State. 2017ねん11月17にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん9がつ6にち閲覧えつらん
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  6. ^ Jean d'Aspremont, John Haskell (2021-10-28). Tipping Points in International Law: Commitment and Critique (ASIL Studies in International Legal Theory) (English Edition). Cambridge University Press. p. 296. ISBN 978-1108845106. https://books.google.co.jp/books?id=EmlHEAAAQBAJ&pg=PA296&lpg=PA296&dq=%22not+tolerate+the+withdrawal+of+any+of+its+constituent+parts%22&source=bl&ots=6ItntzMrRm&sig=ACfU3U3IM1YabXhmR2IHHSY339HtdfUBTA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjDo4SHwJWBAxWXO3AKHacADjoQ6AF6BAgJEAM#v=snippet&q=%22would%20not%20tolerate%20the%20withdrawl%22&f=false 
  7. ^ Sources of the Brezhnev Doctrine of Limited Sovereignty and Intervention Leon Romaniecki, Cambridge University Press, 12 February 2016
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  10. ^ Bill Keller (1991ねん1がつ13にち). “Soviet Tanks Roll in Lithuania; 11 Dead”. The New York Times. 2023ねん9がつ7にち閲覧えつらん
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  12. ^ a b c January 13: the Way We Defended Freedom - Lithuania’s Stance in the Face of the 1991 Soviet Aggression”. Office of the Seimas of the Republic of Lithuania. 2023ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  13. ^ a b c Tony Wesolowsky (2021ねん1がつ12にち). “Thirty Years After Soviet Crackdown In Lithuania, Kremlin Accused Of Rewriting History”. Radio Free Europe. 2023ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  14. ^ a b c Andrius Sytas (2022ねん8がつ31にち). “While rest of EU mourns, Baltics recall Gorbachev as agent of repression”. Reuters. 2022ねん8がつ31にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  15. ^ a b Dovilė Sagatienė, Justinas Žilinskas (2022ねん9がつ8にち). “Gorbachev’s Legacy in Lithuania”. Verfassungsblog. 2022ねん9がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  16. ^ a b c Lithuanians slam 'one-sided' reax to Gorbachev death”. AFPBB News (2022ねん8がつ31にち). 2022ねん8がつ31にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  17. ^ Michael Dobbs (1991ねん1がつ14にち). “LITHUANIANS SAY GORBACHEV WAS AWARE OF PLANNED MILITARY ACTION IN VILNIUS”. The Washington Post. 2023ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  18. ^ SUZANNE LYNCH (2022ねん8がつ31にち). “Gorbachev’s death cracks open Europe’s Russian divide”. POLITICO Europe. 2022ねん8がつ31にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん9がつ7にち閲覧えつらん