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ミハイル・スースロフ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミハイル・スースロフ
Михаил Суслов
ミハイル・スースロフ(1964ねん
生年月日せいねんがっぴ (1902-11-21) 1902ねん11月21にち
出生しゅっしょう ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく、シャホブスコエ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1982-01-25) 1982ねん1がつ25にち(79さいぼつ
死没しぼつ ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくモスクワ
出身しゅっしんこう プレハーノフ記念きねんロシア経済けいざいアカデミー
ぜんしょく 経済けいざい学者がくしゃ、エコノミスト
所属しょぞく政党せいとう ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
称号しょうごう
配偶はいぐうしゃ エリザヴェータ・アレクサンドローヴナ・スースロヴァ
子女しじょ レヴォリー(1929年生ねんせい
マイーヤ(1939年生ねんせい

ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
中央ちゅうおう委員いいんかいだい書記しょき
在任ざいにん期間きかん 1965ねん12月6にち - 1982ねん1がつ25にち
中央ちゅうおうだいいち書記しょき書記しょきちょう レオニード・ブレジネフ
在任ざいにん期間きかん 1953ねん9月14にち - 1957ねん12月17にち
中央ちゅうおう委員いいんかいだいいち書記しょき ニキータ・フルシチョフ

ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
中央ちゅうおう委員いいんかい宣伝せんでん部長ぶちょう
在任ざいにん期間きかん 1949ねん7がつ20日はつか - 1952ねん10月27にち
中央ちゅうおう委員いいんかい書記しょきちょう ヨシフ・スターリン

ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
スタヴロポリ地方ちほうとう委員いいんかいだいいち書記しょき
在任ざいにん期間きかん 1939ねん8がつ21にち - 1944ねん11月
中央ちゅうおう委員いいんかい書記しょきちょう ヨシフ・スターリン

その職歴しょくれき
ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
だい19-26政治せいじ局員きょくいん

1955ねん7がつ12にち - 1982ねん1がつ25にち
ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
だい18-26書記しょき局員きょくいん

1952ねん10月16にち - 1953ねん3月5にち
ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとう
だい18 組織そしき局員きょくいん

1947ねん5月24にち - 1982ねん1がつ25にち
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ミハイル・アンドレーエヴィチ・スースロフロシア: Михаил Андреевич Суслов、ラテン文字もじ転写てんしゃMikhail Andreevich Suslov1902ねん11月21にち - 1982ねん1がつ25にち[1])は、ソビエト連邦れんぽう政治せいじフルシチョフブレジネフ時代じだいソ連それん共産党きょうさんとうイデオロギー担当たんとう書記しょきだい書記しょき)をつとめ、事実じじつじょうソ連それんナンバー2としてクレムリン君臨くんりんし、その黒幕くろまくてき役割やくわりから「灰色はいいろ枢機卿すうききょう」、「かげ実力じつりょくしゃ」の異名いみょうった。

経歴けいれき

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ちからスターリン時代じだいまで

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1941ねんのスースロフ

1902ねん11月21にちロシア帝国ていこくシャホブスコエにて、小作農こさくのう家庭かていまれる。1918ねん地元じもとコムソモール組織そしき加入かにゅうし、貧困ひんこん救済きゅうさい委員いいんかいのメンバーとなる。コムソモールでやく3年間ねんかん活動かつどうしたのち1921ねんにロシア共産党きょうさんとうボリシェヴィキ)に入党にゅうとうした。1928ねんプレハーノフ記念きねんモスクワ国民こくみん経済けいざい大学だいがく卒業そつぎょうする。さらに1931ねん共産きょうさん主義しゅぎアカデミーを卒業そつぎょうした。どうアカデミーでは、スースロフがのち共産党きょうさんとう理論りろんとして活躍かつやくする素地そじ形成けいせいした。卒業そつぎょうソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう統制とうせい委員いいんかいはいり、NKVD高官こうかんとして1930年代ねんだいヨシフ・スターリンだい粛清しゅくせい参画さんかくし、レフ・トロツキーニコライ・ブハーリングリゴリー・ジノヴィエフ一派いっぱ粛清しゅくせいした。1937ねんロストフしゅうとう書記しょき1939ねんスタヴロポリ地方ちほうとうだいいち書記しょき歴任れきにんし、少壮しょうそうとう官僚かんりょうとして昇進しょうしんかさねる。だい世界せかい大戦たいせんときには、スターリンの指令しれいしたチェチェンじんイングーシじんなどのカフカース地方ちほうしょ民族みんぞくカザフ強制きょうせい移住いじゅうさせた。1944ねんドイツから奪回だっかいしたバルトさんこくの1つであるリトアニア共産党きょうさんとうリトアニア議長ぎちょうとしてはいり、再度さいど社会しゃかい主義しゅぎ着手ちゃくしゅすると同時どうじに、やく6まんにんリトアニアじんを「リトアニア民族みんぞく主義しゅぎしゃ」の烙印らくいんしたシベリアおくった。だい世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょうすると、スースロフはふたたびイデオロギー分野ぶんやもどる。1946ねん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい宣伝せんでん部長ぶちょう1949ねん共産党きょうさんとう機関きかんプラウダ編集へんしゅうちょう1950ねんマルクス・レーニン主義しゅぎ研究所けんきゅうじょ所長しょちょう歴任れきにんした。1947ねんコミンフォルム結成けっせいや、1948ねんから1949ねんにかけてヨシップ・ブロズ・チトーひきいるユーゴスラビアたいするコミンフォルムによる制裁せいさいおおきな役割やくわりたした。そして1947ねんにはとう中央ちゅうおう委員いいんかい書記しょき1952ねん政治せいじ局員きょくいん選出せんしゅつされた。スースロフはスターリンの信頼しんらいるにいたり、1948ねんには中央ちゅうおう委員いいんかい代表だいひょうしてレーニン没後ぼつご24周年しゅうねん記念きねん演説えんぜつをすることをまかされた。1950ねん6がつには最高さいこう会議かいぎ代議員だいぎいん選出せんしゅつされた。

フルシチョフ時代ときよ

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スターリンの死後しご政治せいじ局員きょくいん解任かいにんされるが、1954ねんソ連それん最高さいこう会議かいぎ連邦れんぽう会議かいぎ外交がいこう委員いいんちょう選出せんしゅつされ、つづ1955ねんには政治せいじきょくあらたとう幹部かんぶ会員かいいんとして復活ふっかつした。そして、1955ねん以後いごつづとう幹部かんぶ会員かいいん(のちとう政治せいじ局員きょくいん)の地位ちい維持いじした唯一ゆいいつ人物じんぶつとなる。スターリンあと権力けんりょく闘争とうそう(1957ねんの「はんとうグループ事件じけん」など)では、ニキータ・フルシチョフ支持しじした。1956ねんだい20かいとう大会たいかいでフルシチョフがスターリン批判ひはん展開てんかいしたさいには、イデオロギー報告ほうこくでスターリンとかれ個人こじん崇拝すうはい批判ひはんする方向ほうこう転換てんかんした。しかし、元来がんらいよりスースロフとフルシチョフのあいだには内外ないがい政策せいさく根深ねぶか相違そういがあり、かれはフルシチョフの政策せいさくたいして次第しだい批判ひはんてきになっていく。外交がいこう政策せいさくでは、フルシチョフによるべい関係かんけい改善かいぜんおよびスターリン時代じだい悪化あっかしたユーゴスラビアとの和解わかい路線ろせん反対はんたいし、内政ないせいでは、フルシチョフによるだつスターリン主義しゅぎ政策せいさく経済けいざいてき分権ぶんけん政策せいさく反対はんたいした。そして、1962ねんキューバ危機きき失策しっさくにフルシチョフの立場たちば弱体じゃくたいすると、わって、スースロフのちから増大ぞうだいすることとなった。なお、スースロフは、1964ねん10月のフルシチョフ解任かいにんげきアレクセイ・コスイギンとともに直前ちょくぜんまでらされていなかったことがペトロ・シェレスト回想かいそうろくなどからあきらかになっている。

ブレジネフ時代ときよ

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フルシチョフ失脚しっきゃくとう中央ちゅうおう委員いいんかいイデオロギー担当たんとう書記しょきとして、だいいち書記しょきのち書記しょきちょう)のレオニード・ブレジネフ首相しゅしょうアレクセイ・コスイギンならび1960年代ねんだいソ連それんさい有力ゆうりょく政治せいじ1人ひとりとして影響えいきょうりょく発揮はっきする。スースロフ以降いこう、イデオロギー担当たんとう書記しょき政治せいじ局員きょくいん最高さいこう会議かいぎ連邦れんぽう会議かいぎ外交がいこう委員いいんちょうねて「だい書記しょき」と做されるようになり、ユーリ・アンドロポフコンスタンティン・チェルネンコミハイル・ゴルバチョフ先例せんれいとなった。しかし、スースロフ自身じしんソ連それん指導しどうしゃとなることにけっして興味きょうみがあるわけではなく、舞台裏ぶたいうらおとこでありつづけることに満足まんぞくしていた。フルシチョフ追放ついほうさいしては、スースロフは後任こうにんだいいち書記しょきになろうとすればなれたのだが、えてイデオロギー問題もんだい専念せんねんするほうをえらんだという。かれはかねてより最高さいこう指導しどうしゃ1にんだけが強力きょうりょく権限けんげんにぎ政治せいじ批判ひはんする思想しそうっており、党内とうない民主みんしゅ主義しゅぎ実現じつげんのぞみ、スターリンやフルシチョフの時代じだいられたような一人ひとりせいさい構築こうちくつよ反対はんたいした。ゆえ1970ねん浮上ふじょうしたブレジネフの首相しゅしょうしょく兼任けんにん人事じんじ反対はんたいし、その人事じんじながれるということもあった。スースロフはブレジネフ、キリレンコとともにとう指導しどうない非公式ひこうしきトロイカ体制たいせい一員いちいんとしての地位ちいめ、書記しょきちょうのブレジネフ、国家こっか元首げんしゅである最高さいこう会議かいぎ幹部かんぶかい議長ぎちょうのポドゴルヌイ、首相しゅしょうのコスイギンに党内とうない序列じょれつ4位置付いちづけられた。また、かれはブレジネフ政権せいけんにおいて書記しょききょく政治せいじきょく両方りょうほう在籍ざいせきしている4にんのうちの1にんでもあった。(の3にんは、ブレジネフ、アンドレイ・キリレンコフョードル・クラコフ

対外たいがい関係かんけい

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1956ねんハンガリー動乱どうらんおよ1968ねんチェコスロバキアの「プラハのはる」の弾圧だんあつや、1979ねんアフガニスタン侵攻しんこう1981ねんポーランド軍政ぐんせい施行しこうなど、制限せいげん主権しゅけんろんもとづく「ブレジネフ・ドクトリン」をし、ネオ・スターリニストとしてソ連それん外交がいこうタカ路線ろせん唱導しょうどうした。

1959ねんソ連それん最高さいこう会議かいぎ代議員だいぎいんとして英国えいこく訪問ほうもん労働党ろうどうとう党首とうしゅヒュー・ゲイツケルによるソ連それん訪問ほうもん実現じつげんさせた。

中国ちゅうごくソ連それんはフルシチョフ政権せいけん以降いこうながきにわたって対立たいりつ関係かんけいにあった。そのなかでスースロフは、毛沢東もうたくとう個人こじん崇拝すうはい施策しさくをスターリンのしたられたものと比較ひかくし、「問題もんだい核心かくしんは、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう指導しどう近年きんねん中国ちゅうごくにおける社会しゃかい主義しゅぎ成熟せいじゅく誇張こちょうする路線ろせんきずいてきたことである。そこではたか自尊心じそんしん傲慢ごうまんさが見受みうけられる。これらの欠点けってんは、おも毛沢東もうたくとう同志どうし性格せいかく起因きいんするものとして説明せつめいがつく。」とべた。

1968ねん1がつ30にちには日本にっぽん共産党きょうさんとうとの関係かんけい正常せいじょうのために訪日ほうにちしたが、「日本にっぽんのこえとの断絶だんぜつ問題もんだい合意ごうい成立せいりつせず、正常せいじょうはならなかった。

死去しきょ

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あか広場ひろば革命かくめい元勲げんくんにあるスースロフのはか

1982ねん1がつ25にち心臓しんぞうびょうのため死去しきょした。79さいぼつかれはポスト・ブレジネフをめぐる権力けんりょく闘争とうそうはじまりを意味いみするものととらえられる。だい書記しょき地位ちいKGB議長ぎちょうながらくつとめたユーリ・アンドロポフに、「キングメーカー」の地位ちいは、国防こくぼうしょうドミトリー・ウスチノフにそれぞれがれた(ただし、だい書記しょきしょくはスースロフの死後しごしばらくのあいだはチェルネンコが代行だいこうしていた)。スースロフの葬儀そうぎ大々的だいだいてきおこなわれ、1953ねんヨシフ・スターリン葬儀そうぎ以来いらい最大さいだいのものとなった。ソ連それん全土ぜんどで4日間にちかん服喪ふくも期間きかんもうけられ、1がつ29にち葬儀そうぎには小学校しょうがっこうから大学だいがくまで休校きゅうこうとなり、モスクワ出入でいりする道路どうろ完全かんぜん封鎖ふうさされた。ソ連それんすべてのテレビ局てれびきょくが、あか広場ひろばおこなわれた葬儀そうぎソ連それん全土ぜんど中継ちゅうけい放映ほうえいした。葬儀そうぎでは、ブレジネフ書記しょきちょうグリシン政治せいじ局員きょくいんらが追悼ついとう演説えんぜつおこない、国歌こっか演奏えんそうされ、幹部かんぶらが敬礼けいれいするなかレーニンびょううら革命かくめい元勲げんくん遺体いたい埋葬まいそうされた(埋葬まいそう場所ばしょはスターリンのとなり)。ブレジネフは追悼ついとう演説えんぜつ終盤しゅうばん涙声なみだごえとなり、また、そばにあった椅子いすすうかい腰掛こしかけるなどけたショックのおおきさをしのばせた。参列さんれつした政治せいじ局員きょくいんなかには、これにつられるようにしきりになみだぬぐものもいた。

評価ひょうか

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スースロフはとかく身内みうちのスキャンダルがえなかったブレジネフ書記しょきちょうりかかるはらうのに、つよいリーダーシップを発揮はっきしたとわれている。実際じっさいにスースロフの死後しご、ブレジネフ周辺しゅうへんには汚職おしょく追及ついきゅう捜査そうさがどんどんせばまっていくことになり、逮捕たいほしゃ自殺じさつしゃ続出ぞくしゅつした。さらに、本来ほんらい最高さいこう機密きみつであるはずのそうした情報じょうほうが、逐一ちくいちモスクワ市民しみん西側にしがわメディアのるところとなり、その黒幕くろまく国家こっか保安ほあん委員いいんかい(KGB)議長ぎちょうユーリ・アンドロポフであるとささやかれた[2]。スースロフの死後しご、ブレジネフは急速きゅうそくにその求心力きゅうしんりょくとし、同年どうねん11がつ死去しきょ。そして後継こうけいしゃとなったのはアンドロポフであった。

表彰ひょうしょう

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スースロフは存命ぞんめいちゅうにいくつもの勲章くんしょうやメダルを授与じゅよされていた。社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどう英雄えいゆう2かいレーニン勲章くんしょう5かいじゅうがつ革命かくめい勲章くんしょうおよび1とう祖国そこく戦争せんそう勲章くんしょうが1かいずつ授与じゅよされた。ソ連それん科学かがくアカデミーはカール・マルクス金賞きんしょうをスースロフに授与じゅよした。ほかにもドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくモンゴル人民じんみん共和きょうわこくチェコスロバキア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく最高さいこうしょう受賞じゅしょうしていた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ スースロフ』 - コトバンク
  2. ^ 今井いまいひろし『モスクワ特派とくはいん報告ほうこく-ニュースの裏側うらがわ-』(岩波いわなみ新書しんしょ, 1985ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
さいしつらえ
ニコライ・ポドゴルヌイ
ソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとうだい書記しょき
1953ねん9がつ14にち - 1957ねん12月17にち
1965ねん12月6にち - 1982ねん1がつ25にち
次代じだい
アレクセイ・キリチェンコ
コンスタンティン・チェルネンコ代理だいり