新興しんこう俳句はいく弾圧だんあつ事件じけん

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「俳句弾圧不忘の碑」(長野県上田市「無言館」近く「槐多庵」前庭)マブソン青眼撮影
俳句はいく弾圧だんあつ忘のいしぶみ」(長野ながのけん上田うえだ無言むごんかん近辺きんぺん槐多かいたあん前庭ぜんてい[1]

新興しんこう俳句はいく弾圧だんあつ事件じけん(しんこうはいくだんあつじけん)あるいは昭和しょうわ俳句はいく弾圧だんあつ事件じけん(しょうわはいくだんあつじけん)とは、1940ねんから1943ねんあいだおこなわれた、治安ちあん維持いじほうもとづく、新興しんこう俳句はいく俳句はいく俳人はいじんたいする一連いちれん言論げんろん弾圧だんあつ事件じけん総称そうしょうである。対象たいしょうとなった俳人はいじん逮捕たいほされ、俳句はいくおおくは廃刊はいかんまれた。契機けいきとなった「京大きょうだい俳句はいく」への弾圧だんあつ事件じけんを「京大きょうだい俳句はいく事件じけん」ともう。

経緯けいい[編集へんしゅう]

1933ねん創刊そうかんされた「京大きょうだい俳句はいく」は「作風さくふう批判ひはん自由じゆう」を標榜ひょうぼうした。しかし、戦意せんい高揚こうよう俳句はいく作成さくせい使つか季語きごすらくにから推奨すいしょうされる時代じだいに、厭戦えんせん反戦はんせん俳句はいく次々つぎつぎ掲載けいさいしたことから特高とっこうからにらまれるようになり、一連いちれん事件じけんすくなくとも44めい検挙けんきょされ、そのうち13めい懲役ちょうえきけいけた[1]

弾圧だんあつ対象たいしょうとなった俳句はいく俳人はいじん[編集へんしゅう]

  • 京大きょうだい俳句はいく」(だい1)1940ねん2がつ14にち[2]
  • 京大きょうだい俳句はいく」(だい2)1940ねん5がつ3にち[3]
  • 京大きょうだい俳句はいく」(だい3)1940ねん8がつ31にち[4]
  • 広場ひろば」1941ねん2がつ5にち[5]
    • 藤田ふじたつとむよしはつ)、中台なかだい満男みつお中台ちゅうたいはるみね)、はやし三郎さぶろう細谷ほそや源太郎げんたろう細谷ほそや源二げんじ)、小西こにし金雄かねおけん
  • じょう」1941ねん2がつ5にち[5]
  • 日本にっぽん俳句はいく」1941ねん2がつ5にち
    • 平沢ひらさわ栄一郎えいいちろう英一郎えいいちろう
  • 俳句はいく生活せいかつ」1941ねん2がつ5にち、7にち、21にち[5]
  • 山脈さんみゃく」1941ねん11月20にち
    • 山崎やまざき清勝きよかつあおがね)、山崎やまざき義枝よしえ西村にしむら正男まさお前田まえだただしつるえい謙二けんじ勝木かつき茂夫しげお紀藤きとうのぼる福村ふくむら信雄のぶお宇山うやま幹夫みきお和田わだ研二けんじ
  • 「きりしま」1943ねん6がつ3にち
    • めん高秀たかひでなま)、大坪おおつぼみのるおっとはくゆめ)、瀬戸口せとぐち武則たけのり
  • 宇治山田うじやまだ鶏頭けいとうじん」1943ねん6がつ14にち[5]
    • 野呂のろ新吾しんごろくさん
  • さそり」1943ねん12月6にち[6]
    • 大河おおかわ隆一りゅういちざい信夫しのぶ)、高橋たかはし凱晟(高橋たかはし紫衣しえふう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 昭和しょうわ俳句はいく弾圧だんあつ事件じけん記念きねんかい
  2. ^ 田島たじま和生かずおだいしょう 弾圧だんあつあらし京大きょうだい俳句はいく会員かいいん一斉いっせい検挙けんきょ」『新興しんこう俳句はいく群像ぐんぞう京大きょうだい俳句はいくひかりかげ』117-132ぺーじ
  3. ^ 田島たじま和生かずおだいしょう 弾圧だんあつあらし京大きょうだい俳句はいくだい検挙けんきょ」『新興しんこう俳句はいく群像ぐんぞう京大きょうだい俳句はいくひかりかげ』137-141ぺーじ
  4. ^ 田島たじま和生かずおだいしょう 弾圧だんあつあらし さんおに、ついにつかまる」『新興しんこう俳句はいく群像ぐんぞう京大きょうだい俳句はいくひかりかげ』143-146ぺーじ
  5. ^ a b c d 田島たじま和生かずおだいろくしょう ひろがる俳人はいじん弾圧だんあつ」『新興しんこう俳句はいく群像ぐんぞう京大きょうだい俳句はいくひかりかげ』170-195ぺーじ
  6. ^ 日野ひの百草もぐさ戦前せんぜん自由じゆうりつにおける社会しゃかいせい俳句はいく」『橋本はしもと夢道むどう獄中ごくちゅう戦中せんちゅう日記にっき』 290ぺーじ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]