うみあきら

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うみあきら
ほんぬき ぜんしゅう
子女しじょ いさおばしら

うみあきら(イ・ヘチャン、1865ねん10がつ15にち - 1945ねん3がつ2にち)は、朝鮮ちょうせん末期まっきから大韓たいかん帝国ていこく政治せいじ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

とくきょう大院君たいいんくん岹の13せいまごとして京畿けいきどうだきかわぐんまれ、なつ朝鮮ちょうせんばん家系かけいいだ。ひかりいとぐち15ねん1889ねん)に式年しきねん文科ぶんかへい合格ごうかくした。以降いこうつかさ諫院だいつかさ諫などの官職かんしょくて、光武みつたけ8ねん1904ねん)にはかんじょうはんいんとなった。同年どうねんあきらやまくんすすむふうされたと同時どうじに、したがえひんとくされひろしりょうもりりょうかんとなった。光武みつたけ9ねん1905ねん)にはせいひん正憲まさのり大夫たいふとなり、光武みつたけ11ねん1907ねん)にはしたがえいちひん昇格しょうかくした。在任ざいにんちゅう勲一等くんいっとう太極たいきょくあきらだいくんはなだい綬章じゅしょうけた。

にちかん併合へいごう条約じょうやく締結ていけつ1910ねん明治めいじ43ねん)10がつ16にちに、朝鮮ちょうせん貴族きぞくとして侯爵こうしゃくれっせられた。

一方いっぽう財界ざいかいともふか関係かんけいきずくようになり、かんしょうりゅうかんなどが設立せつりつしたかんじょう銀行ぎんこう朝鮮ちょうせんばんに1910ねんから閔泳徽ちょうしげるおうらととも参加さんかし、1923ねん大正たいしょう12ねん)から1928ねん昭和しょうわ3ねん)までは銀行ぎんこう取締役とりしまりやくつとめた。

死後しご評価ひょうか[編集へんしゅう]

2002ねん発表はっぴょうされた親日しんにち708にん名簿めいぼと、2005ねん民族みんぞく問題もんだい研究所けんきゅうじょ親日しんにち人名じんめい辞書じしょ収録しゅうろくするために整理せいりした親日しんにち人名じんめい辞書じしょ収録しゅうろく予定よていしゃ1名簿めいぼ選定せんていされた。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい1225ごう叙任じょにん及辞れい」1931ねん1がつ31にち
  2. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち