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徳興大院君(とくこうだいいんくん、トグンデウォングン、덕흥대원군)は、李氏朝鮮初期の王族であった人物。諱は岹 (チョ、초)、字は景仰(けいぎょう、キョンアン)、幼名は歓壽(かんじゅ、ハンス)。第11代国王である中宗の第9王子(第7庶子)で実母は昌嬪安氏。第14代国王宣祖の父。
嘉靖9年3月5日(1530年4月2日)、朝鮮漢城にて誕生した。嘉靖18年(1538年)徳興君に冊封され、4年後の嘉靖22年(1542年)、世祖治世下で領議政を務めた鄭麟趾 (河東府院君) の曾孫であり、判中樞府事 (六曹の総括長官)であった鄭世虎の娘である河東鄭氏と結婚した。河源君(李鋥)、河陵君(李鏻)、宣祖、李明順、李恵玉の3男2女がある。明宗14年/嘉靖38年5月9日(1559年6月14日)に病のため私邸であった都正宮にて薨去し、同年8月16日(9月17日)、楊州 (現南楊州市) 水落山に埋葬された。
隆慶元年(1567年)、三男の河城君が明宗の崩御に伴い、即位して宣祖となった。2年後の宣祖2年/隆慶3年(1569年)、北宋第5代皇帝英宗の実父趙允譲に濮王の号が追号された故事にならって、徳興君は「徳興大院君」と、夫人の河東鄭氏は「河東府大夫人」と追尊された。夫妻は「皇伯父母」とも称された。
漢詩をものし、『遺墨』という著作がある。