出典 しゅってん : フリー百科 ひゃっか 事典 じてん 『ウィキペディア(Wikipedia)』
李 り 聖 きよし 五 ご (り せいご)は中華民国 ちゅうかみんこく の外交 がいこう 官 かん ・政治 せいじ 家 か ・法学 ほうがく 者 しゃ 。名 な は福 ぶく 善 ぜん だが、字 じ の聖 せい 五 ご で一般 いっぱん に知 し られる。汪 ひろし 兆 ちょう 銘 めい (汪 ひろし 精 せい 衛 まもる )の南京 なんきん 国民 こくみん 政府 せいふ で要職 ようしょく を歴任 れきにん した人物 じんぶつ である。
北京 ぺきん 大学 だいがく を卒業 そつぎょう し、日本 にっぽん に留学 りゅうがく して、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 大学院 だいがくいん 法学部 ほうがくぶ 研究 けんきゅう 員 いん となった。さらにイギリスにも留学 りゅうがく し、オックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく で法学 ほうがく 士 し の学位 がくい を取得 しゅとく した。帰国 きこく 後 ご は、曁南大学 だいがく 、復 ふく 旦 だん 大学 だいがく で教授 きょうじゅ となる。また、上海 しゃんはい 商務 しょうむ 印 しるし 書 しょ 館 かん の編輯 へんしゅう や南京 なんきん 『中央日報 ちゅうおうにっぽう 』主 おも 編 へん も勤 つと めた。
1932年 ねん (民 みん 国 こく 21年 ねん )7月 がつ 、国民 こくみん 政府 せいふ 行政 ぎょうせい 院 いん 参事 さんじ に就任 しゅうにん した。翌年 よくねん 12月 がつ 、外交 がいこう 部 ぶ 総務 そうむ 司 つかさ 司 つかさ 長 ちょう 、中央 ちゅうおう 政治 せいじ 会議 かいぎ 特務 とくむ 秘書 ひしょ 、『東方 とうほう 雑誌 ざっし 』総 そう 編集 へんしゅう を兼任 けんにん した。1935年 ねん (民 みん 国 こく 24年 ねん )に香港 ほんこん の国際 こくさい 問題 もんだい 研究所 けんきゅうじょ 研究 けんきゅう 員 いん に転 てん じる。このとき、汪 ひろし 兆 ちょう 銘 めい (汪 ひろし 精 せい 衛 まもる )と親 した しくなった。1937年 ねん (民 みん 国 こく 26年 ねん )6月 がつ 、外交 がいこう 部 ぶ 顧問 こもん に転 てん じている。
1940年 ねん (民 みん 国 こく 29年 ねん )3月 がつ 、汪 ひろし 兆 ちょう 銘 めい の南京 なんきん 国民 こくみん 政府 せいふ に加入 かにゅう し、司法 しほう 行政 ぎょうせい 部 ぶ 部長 ぶちょう 、中央 ちゅうおう 政治 せいじ 委員 いいん 会 かい 指定 してい 委員 いいん に任命 にんめい された。6月、憲政 けんせい 実施 じっし 委員 いいん 会 かい 常務 じょうむ 委員 いいん となる。翌年 よくねん 3月 がつ 、清 しん 郷 きょう 委員 いいん 会 かい 委員 いいん となり、8月 がつ 、教育 きょういく 部 ぶ 部長 ぶちょう 兼 けん 社会 しゃかい 行動 こうどう 指導 しどう 委員 いいん 会 かい 常務 じょうむ 委員 いいん に転 てん じた[ 1] 。9月、駐 ちゅう ドイツ大使 たいし に任命 にんめい され[ 2] 、11月には文物 ぶんぶつ 保管 ほかん 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 兼 けん 図書 としょ 専門 せんもん 委員 いいん 会 かい 主任 しゅにん 委員 いいん となった。
1942年 ねん (民 みん 国 こく 31年 ねん )2月 がつ 、ドイツ大使 たいし に加 くわ え、デンマーク 公使 こうし も兼任 けんにん した[ 2] 。6月、新 しん 国民 こくみん 運動 うんどう 促進 そくしん 委員 いいん 会 かい 常務 じょうむ 委員 いいん に任 にん じられる。1945年 ねん (民 みん 国 こく 34年 ねん )4月 がつ 、外交 がいこう 部 ぶ 部長 ぶちょう を兼任 けんにん し、翌月 よくげつ には、文物 ぶんぶつ 保管 ほかん 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう と各国 かっこく 在 ざい 華 はな 治外法権 ちがいほうけん 撤廃 てっぱい 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう も兼任 けんにん している。
日本 にっぽん 敗北 はいぼく 後 ご の同年 どうねん 9月 がつ 26日 にち 、蔣介石 せき の国民 こくみん 政府 せいふ により逮捕 たいほ され、南京 なんきん で収監 しゅうかん された。1947年 ねん (民 みん 国 こく 36年 ねん )12月9日 にち 、懲役 ちょうえき 15年 ねん の判決 はんけつ を受 う けた[ 3] 。しかし後 のち に釈放 しゃくほう されて香港 ほんこん に隠居 いんきょ し、香港 ほんこん 中 ちゅう 文 ぶん 大学 だいがく で法学 ほうがく の教鞭 きょうべん をとった。1979年 ねん 以降 いこう 、何 なん 度 ど か帰郷 ききょう する。1984年 ねん からは黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう ジャムス市 し に住 す む長女 ちょうじょ の下 した で暮 く らした。
1985年 ねん 、病没 びょうぼつ 。享年 きょうねん 87。
^ 劉 りゅう 寿 ひさし 林 りん ほか編 へん 『民 みん 国 こく 職 しょく 官 かん 年表 ねんぴょう 』、1097頁 ぺーじ では、以後 いご 、李 り 聖 きよし 五 ご が南京 なんきん 国民 こくみん 政府 せいふ 崩壊 ほうかい まで教育 きょういく 部長 ぶちょう を務 つと めたことになっている。しかし、ここでは徐 じょ 友 とも 春 はる 主 ぬし 編 へん 『民 みん 国 こく 人物 じんぶつ 大 だい 辞典 じてん 増 ぞう 訂 てい 版 ばん 』の「陳 ひね 春 はる 圃」の項 こう に従 したが い、1944年 ねん (民 みん 国 こく 33年 ねん )2月 がつ までの在任 ざいにん とする。
^ a b 郭 かく 卿 きょう 友 とも 『中華民国 ちゅうかみんこく 時期 じき 軍政 ぐんせい 職 しょく 官 かん 誌 し 下巻 げかん 』1919頁 ぺーじ によれば、着任 ちゃくにん はしていない。
^ 余子 よし 道 どう ほか『汪 ひろし 偽 にせ 政権 せいけん 全 ぜん 史 し 下巻 げかん 』1617頁 ぺーじ 。
ウィキメディア・コモンズには、
李 り 聖 きよし 五 ご に
関連 かんれん するメディアがあります。
徐 じょ 友 とも 春 はる 主 ぬし 編 へん 『民 みん 国 こく 人物 じんぶつ 大 だい 辞典 じてん 増 ぞう 訂 てい 版 ばん 』河北 かわきた 人民 じんみん 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2007年 ねん 。ISBN 978-7-202-03014-1 。
余子 よし 道 どう ほか『汪 ひろし 偽 にせ 政権 せいけん 全 ぜん 史 し 下巻 げかん 』上海 しゃんはい 人民 じんみん 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2006年 ねん 。ISBN 7-208-06486-5 。
劉 りゅう 寿 ひさし 林 りん ほか編 へん 『民 みん 国 こく 職 しょく 官 かん 年表 ねんぴょう 』中華 ちゅうか 書 しょ 局 きょく 、1995年 ねん 。ISBN 7-101-01320-1 。
郭 かく 卿 きょう 友 とも 主 ぬし 編 へん 『中華民国 ちゅうかみんこく 時期 じき 軍政 ぐんせい 職 しょく 官 かん 誌 し 下 か 』甘粛 かんせい 人民 じんみん 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1990年 ねん 。ISBN 7-226-00582-4 。
「叛首伝 でん 」 「山東 さんとう 省 しょう 情 じょう 網 もう 」(山東 さんとう 省 しょう 地方 ちほう 志 こころざし 弁 べん 公 おおやけ 室 しつ ホームページ)内 ない 「山東 さんとう 省 しょう 省 しょう 情 じょう 資料 しりょう 庫 こ 」
Li, Charles N (2008). The Bitter Sea: Coming of Age in a China Before Mao . HarperCollins. ISBN 0061346640 (李 り 聖 きよし 五 ご の子 こ で米国 べいこく に帰化 きか した言語 げんご 学者 がくしゃ チャールズ・N・リー (李 り 訥)の自伝 じでん 、父親 ちちおや についても詳 くわ しく記 しる す)