楠岡くすおかつよし

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楠岡くすおか つよし(くすおか たけし 1920ねん12月15にち - )は、日本にっぽん通産つうさん官僚かんりょうもと通産省つうさんしょう繊維せんい雑貨ざっか局長きょくちょう

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

東京とうきょう府立ふりついちなか旧制きゅうせいいちだか東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう、1943ねん9がつ商工しょうこうしょう入省にゅうしょう同期どうき山下やました英明ひであき三宅みやけ幸夫ゆきお矢島やじま嗣郎つぎお科技庁かぎちょう官房かんぼうちょう重工業じゅうこうぎょう局長きょくちょう三愛石油さんあいせきゆ開発かいはつ顧問こもん)、そうきよし中小企業庁ちゅうしょうきぎょうちょう長官ちょうかん)、新田にったかのえいちけいくわだて事務次官じむじかん)、長橋ながはししょう公益こうえき事業じぎょう局長きょくちょう中部電力ちゅうぶでんりょくふく社長しゃちょう東邦とうほう石油せきゆ社長しゃちょう)など。

通商つうしょうきょく通商つうしょう調査ちょうさ課長かちょう貿易ぼうえき振興しんこうきょく貿易ぼうえき振興しんこう課長かちょう大臣だいじん官房かんぼう審議しんぎかんなどをて、通商つうしょうきょく次長じちょう(1968ねん10がつ1にち - 1970ねん10がつ27にち)から、佐藤さとう - ニクソン会談かいだん早急そうきゅう日米にちべい繊維せんい交渉こうしょう政府せいふあいだ交渉こうしょう再開さいかいすることで妥結だけつしたため(1970ねん10がつ24にち)、同期どうき三宅みやけ幸夫ゆきお糖尿とうにょうびょう入院にゅういんしていたことから、わって繊維せんい雑貨ざっか局長きょくちょう(1970ねん10がつ27にち - 1971ねん8がつ13にち)に就任しゅうにんした[1]通産省つうさんしょう通商つうしょう局長きょくちょうには原田はらだあきら(1969ねん11月7にち - 1971ねん6がつ15にち)がつづいてたり、外務省がいむしょう経済けいざい局長きょくちょう鶴見つるみ清彦きよひこから平原ひらはらあつし(1970ねん8がつ14にち - 1972ねん9がつ29にち)にわっていた。

1970ねん11月18にち米国べいこく議会ぎかいべい通商つうしょう法案ほうあん審議しんぎ再開さいかいされるまで、日米にちべい両国りょうこく政府せいふあいだで1968ねんあき以来いらい日米にちべい繊維せんい交渉こうしょう妥結だけつ目処めどをつける意向いこうだったことから、宮沢みやざわ喜一きいち通産つうさん大臣だいじんもとで、繊維せんい政策せいさく課長かちょうつとめ、ちゅうカナダ大使館たいしかん参事官さんじかん時代じだいにはにち繊維せんい交渉こうしょうにもたずさわってきた経験けいけんかしピンチヒッターの楠岡くすおか中心ちゅうしんとなって、すでに“終戦しゅうせん処理しょり”のために、業界ぎょうかいの「輸出ゆしゅつ自主じしゅ規制きせい」にともなう“うしき”の救済きゅうさい措置そち、および資本しほん貿易ぼうえき自由じゆう一般いっぱん特恵とっけい関税かんぜい供与きょうよなどの国際こくさいたいして“前向まえむき”の援助えんじょ措置そちといったとも相容あいいれない積極せっきょく消極しょうきょくりょう措置そち同一どういつ法律ほうりつあん一本いっぽんするための「産業さんぎょう援助えんじょほうあんつくりにたずさわっていた[2]

1970ねんはじめ、佐藤さとう - ニクソン会談かいだんでは、沖縄おきなわ返還へんかんわりに繊維せんいではアメリカに妥協だきょうするという密約みつやくわされていたという事実じじつ露呈ろていされたりしたが[3]、1968ねんは、日本にっぽんにとっていわゆる1965ねんの「昭和しょうわ40ねん不況ふきょう」からなおったばかりのとしで、繊維せんい業者ぎょうしゃにとって綿めん製品せいひん[4]に、あらたにもう合繊ごうせん製品せいひんくわえた輸出ゆしゅつ自主じしゅ規制きせいはとてもれられる要求ようきゅうではなかった[5]。そのため、通産省つうさんしょう谷口たにぐち豊三郎とよさぶろう日本にっぽん繊維せんい産業さんぎょう連盟れんめい会長かいちょう東洋紡績とうようぼうせき社長しゃちょう、のち会長かいちょう)や宮崎みやざきあきら日本にっぽん化学かがく繊維せんい協会きょうかい会長かいちょう旭化成あさひかせい社長しゃちょう、のち会長かいちょう)、柿坪かきつぼせいわれ日本にっぽん紡績ぼうせき協会きょうかい委員いいんちょう日東紡績にっとうぼうせき社長しゃちょう(1967ねん ~ )、もとうみけい理事りじ(1962ねん ~ )、どう初代しょだい事務じむ局長きょくちょう(1961ねん ~ )、もと通産省つうさんしょう官房かんぼう審議しんぎかんどう通商つうしょうきょく振興しんこう部長ぶちょう、1939ねん商工しょうこうしょう入省にゅうしょう)ら国内こくない繊維せんい業者ぎょうしゃ後押あとおしをけて頑強がんきょうこばつづけていた。

政府せいふ訓令くんれいにより「特定とくていじゅうなな品目ひんもくろくワク」の枠組わくぐみを最低さいていラインに、そこに裁量さいりょうはば若干じゃっかんたせるかたちで、うしじょう信彦のぶひこ駐米ちゅうべい大使たいし(1970ねん7がつ10日とおか - 1973ねん)がフラニガンまい大統領だいとうりょう補佐ほさかんと“合意ごういのため”の再開さいかい交渉こうしょうであるだいさんかい日米にちべい会談かいだん折衝せっしょうはいったが、そののちも交渉こうしょうがまとまらず、また植村うえむらかぶとうまろう経団連けいだんれん会長かいちょう訪米ほうべいもあったが遅遅ちちとして合意ごういにまでいたらなかった。一方いっぽう楠岡くすおかは1970ねん11がつ20日はつかうしじょうへのさい訓令くんれいまえ業界ぎょうかいとの折衝せっしょうたり、“終戦しゅうせん処理しょりのため”の業界ぎょうかい救済きゅうさいさくあたまいためていた[6]

1971ねん3がつ日本にっぽん繊維せんい産業さんぎょう連盟れんめい大屋おおやすすむさん会長かいちょう)は、「業界ぎょうかいによる輸出ゆしゅつ自主じしゅ規制きせい」を一方いっぽうてき宣言せんげんしたが[7]、ニクソンは拒否きょひ、「政府せいふあいだ協定きょうてい輸出ゆしゅつ自主じしゅ規制きせい」をするか「米国べいこくによる一方いっぽうてき輸入ゆにゅう割当わりあて実施じっし」するかの二者択一にしゃたくいつせまった[8]

のち、楠岡くすおかのちけた佐々木ささきさとし繊維せんい雑貨ざっか局長きょくちょう(1971ねん8がつ13にち - 1972ねん6がつ23にち、のち商工中金しょうこうちゅうきん理事りじちょう)、山下やました英明ひであき通商つうしょう局長きょくちょう(1971ねん6がつ15にち - 1972ねん6がつ23にち)、田中たなか角栄かくえい通産つうさん大臣だいじん時代じだいの1971ねん9がつ21にち、ニクソンの使者ししゃとしてジューリック国務省こくむしょう特別とくべつ補佐ほさかん来日らいにち、10月から日本にっぽん商品しょうひん輸入ゆにゅう規制きせいるとつたえられたために、同年どうねん10がつ15にち田中たなか通産つうさん大臣だいじんとケネディべい特使とくしとのあいだで「政府せいふあいだ協定きょうてい輸出ゆしゅつ自主じしゅ規制きせい」をすることで締結ていけつし、アメリカの要求ようきゅうどおりの協定きょうていまされることとなった[5]

退官たいかんは、石油せきゆ開発かいはつ公団こうだん理事りじ日本にっぽん地下ちか石油せきゆ備蓄びちく社長しゃちょうなど。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1970ねん10がつ27にちづけ夕刊ゆうかん2めん
  2. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1970ねん10がつ31にちづけ朝刊ちょうかん7めん
  3. ^ ニクソンの公約こうやくにより、1969ねん7がつ日米にちべい貿易ぼうえき経済けいざい合同ごうどう委員いいんかいにてスタンズべい商務しょうむ長官ちょうかんが、「政府せいふあいだ協定きょうていによる輸出ゆしゅつ自主じしゅ規制きせい」を日本にっぽんせまった。同年どうねん9がつ16にちからの高橋たかはし調査ちょうさだん高橋たかはし淑郎よしろう繊維せんい雑貨ざっか局長きょくちょう・1942ねん入省にゅうしょう)が米国べいこく繊維せんい業界ぎょうかい実際じっさい被害ひがいしとの報告ほうこくをしていたが、同年どうねん11がつ19にちからの日米にちべい首脳しゅのう会談かいだんでは、佐藤さとうはニクソンに早期そうき解決かいけつ約束やくそくした。沖縄おきなわ返還へんかん・1970ねん日米にちべい安保あんぽ条約じょうやく自動じどう延長えんちょうとその再編さいへん視野しや繊維せんい業界ぎょうかいをいわば“人柱ひとばしら”にした、政治せいじてき性格せいかくがそこに色濃いろこ反映はんえいされていた。 『通産省つうさんしょう』(川北かわきた隆雄たかお講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、1991ねん3がつ) P176 ~ P178
  4. ^ 綿めん製品せいひんかんしては、1961ねん日米にちべいあいだにおいて輸出ゆしゅつ規制きせい協定きょうてい締結ていけつされていた。
  5. ^ a b 日本にっぽん官僚かんりょう 1980』(田原たはら総一朗そういちろう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1979ねん12月20にち) P288 ~ P290
  6. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1970ねん11月20にちづけ朝刊ちょうかん7めん
  7. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1971ねん3がつ5にちづけ朝刊ちょうかん7めん
  8. ^ 通産省つうさんしょう』(川北かわきた隆雄たかお) P178