橋本はしもと宗吉そうきち

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橋本はしもと 宗吉そうきち
橋本はしもと雲斎うんさい肖像しょうぞう
生誕せいたん たかられき13ねん1763ねん[1]
阿波あわこく大阪おおさかせつあり[1]
死没しぼつ 天保てんぽう7ねん5月1にち(1836ねん6月14にち) [2]
研究けんきゅう分野ぶんや 医学いがく蘭学らんがく
影響えいきょう
けた人物じんぶつ
大槻おおつき玄沢げんたく小石こいしもとしゅんあいだ重富しげとみ
影響えいきょう
あたえた人物じんぶつ
中天ちゅうてんゆう[3]伏屋ふしや[4]各務かがみ文献ぶんけん[5]藤田ふじたあらわぞう[5]
おも受賞じゅしょうれき おくせい(1935ねん[6]
プロジェクト:人物じんぶつでん
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橋本はしもと 宗吉そうきち(はしもと そうきち、たかられき13ねん(1763ねん) - 天保てんぽう7ねん5月1にち(1836ねん6月14にち))または橋本はしもと てい(はしもと てい)[7]日本にっぽん蘭方らんぽう蘭学らんがくしゃである。くもりとき(どんさい)、いとかんどうともごうした[8]医学いがく天文学てんもんがく本草学ほんぞうがく翻訳ほんやくがけた。また蘭学らんがくしょいてエレキテル自作じさくし、エレキテルおよび数々かずかず実験じっけんについての記述きじゅつのこしている。これらの業績ぎょうせきより、日本にっぽん電気でんきがく学術がくじゅつてき研究けんきゅうであるともひょうされる[5][9][10]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

祖先そせん四国しこく阿波あわこく那賀なかぐん郷士ごうしであったとつたえられている[1]宗吉そうきちちちだい大阪おおさかにでてきた[8]宗吉そうきち阿波あわまれか、大阪おおさかまれかは不明ふめいである[1][8]

かさもん職人しょくにんをしていたが、記憶きおくりょくさから評判ひょうばんとなり、医者いしゃ小石こいしもとしゅん見出みいだされる[8]小石こいしは、最新さいしん蘭学らんがくしょ翻訳ほんやくするために、オランダ精通せいつうしたものさがしていた[8]小石こいしは、天文学てんもんがくしゃであったあいだ重富しげとみ相談そうだんし、りょう費用ひよう負担ふたんして、橋本はしもと宗吉そうきち江戸えどおくり、オランダまなばせることにした[8]寛政かんせい2ねん(1790ねん)、橋本はしもと江戸えど大槻おおつき玄沢げんたく門弟もんていとなった[11][注釈ちゅうしゃく 1]。この事情じじょうについては、杉田すぎた玄白げんぱくちょ蘭学らんがく事始ことはじめ』にも以下いかのような記述きじゅつがある[11]

大坂おおさか橋本はしもと宗吉そうきちというおとこあり。かさもんかくことをごうとして老親ろうしんやしないとなめりと。不学ふがくなれども生来せいらい奇才きさいあるものゆえ、土地とちごうものども見立みたてて、ちからくわえ、江戸えどくだして玄沢げんたくもんれたり。わずかの逗留とうりゅうあいだ出精しゅっせいし、その大体だいたいまなび、ざかのちみずかつとめてそのぎょうおおいにすすみ、のち医師いしとなりて、ますますこのごうとなえ、したがえゆうひとおおく、ようやく訳書やくしょをもなし、五畿七道山陽南海諸道のひと誘導ゆうどうし、いまにおけるいよいよさかんなりとけり。江戸えどきたりしは寛政かんせい初年しょねんのことなり。

—  杉田すぎた玄白げんぱく蘭学らんがく事始ことはじめ

小石こいしもとしゅんは、橋本はしもと宗吉そうきち訳書やくしょらん内外ないがいさんほうかたてん』に序文じょぶんせ、橋本はしもとについて以下いかのように紹介しょうかいしている[1]

かずらんげんだいろくまんしかしてのりこれをなすことよんヶ月かげつおのれのうよんまん暗記あんきす。すなわかえってなみはなす。

—  小石こいしもとしゅんらん内外ないがいさんほうかたてん

つまり小石こいしもとしゅん記述きじゅつによると、橋本はしもとは4ヶ月かげつ江戸えど滞在たいざいでオランダ4まん暗記あんきしたのち大阪おおさかもどったことになる。小石こいしもとしゅんあいだ重富しげとみ従事じゅうじし、かれらの指導しどうのもと、蘭学らんがくしょ翻訳ほんやくおこなった[13]。またかれらの仕事しごと手伝てつだいをしていたとかんがえられる。あいだ重富しげとみの『月食げっしょく観測かんそく日記にっき』の寛政かんせい10ねん(1798ねん)10がつ16にちこうには、「橋本はしもと宗吉そうきち蘭学らんがくしゃけん測量そくりょうとき手伝てつだえイタスモノナリ」としるされている[14]

いとかんどう[編集へんしゅう]

橋本はしもと従事じゅうじしていた小石こいしもとしゅんあいだ重富しげとみ相次あいついで大阪おおさかはなれると、寛政かんせい8ねん(1796ねんごろ独立どくりつして医師いし開業かいぎょうした[15]とおるはじめのころ、きょうつし、蘭学らんがくじゅくいとかんどう」(しかんどう)をひらいた[15]。このころ『かつらん新訳しんやく地球ちきゅうぜん』を出版しゅっぱんした[15]

寛政かんせい12ねん(1800ねん)、門弟もんてい伏屋ふしや各務かがみ文献ぶんけん大矢おおやしょうときなどとともかすみとう刑場けいじょうおんなけいかばね解剖かいぼうおこなった[16]。このとき解剖かいぼう各務かがみ文献ぶんけん大矢おおやしょうときが「婦人ふじんないけい略図りゃくず」として詳細しょうさいのこされた[16]

その、『らん内外ないがいさんほうかたてん』の執筆しっぴつにとりかかり、文化ぶんか元年がんねん(1804ねん)から文化ぶんか10ねん(1814ねん)までにろくかん上梓じょうしした[15]序文じょぶん大槻おおつき玄沢げんたくせ、本草ほんぞう薬方やくほう製薬せいやくびょうかた秘術ひじゅつなどの各部かくぶかれている[15]

静電気せいでんきがくへの[編集へんしゅう]

寺子屋てらこやあさひのぼりどう」でのエレキテルによるひゃくにんおどし様子ようすあらわした挿絵さしえ

自著じちょ阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら』のづけしょによると、天明てんめい3ねん(1782ねん)の21さいのときに山中さんちゅうという人物じんぶつっていたエレキテルをりて実験じっけんしたといている[17]

40さいのころから、エレキテル研究けんきゅう没頭ぼっとうした。おそらくは、オランダのボイス(Egbert Buys)が編集へんしゅうした百科ひゃっか事典じてんらん: Nieuw en Volkomen Woordenboek van Konsten en Wetenschappen[注釈ちゅうしゃく 2]」を参考さんこうにしたと推測すいそくされる[18][19]。この百科ひゃっか事典じてんなかで、電気でんきかんする記述きじゅつ図版ずはんふくめて13ページほどであり、該当がいとう箇所かしょ内容ないようは『エレキテルやくせつ』として橋本はしもと宗吉そうきち翻訳ほんやくされた[18]。さらにこの事典じてんとヨハネス・ボイス(Johannes Buijs)ちょらん: Natuurkundjg schoolboek」を参考さんこう[19]エレキテル使つかみずかおこなった実験じっけんせた『阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら』をあらわした[注釈ちゅうしゃく 3]大槻おおつき玄沢げんたくは『厚生こうせい新編しんぺん』の「えつれつよしていちからてきおつおお[注釈ちゅうしゃく 4]」のこう以下いかのように橋本はしもとのことをしるしている。

さてちか文化ぶんかうし両年りょうねんのころ、なみはな橋本はしもとぼうというものみぎボイスのしるわせる図説ずせつおよびナチュールブックとう蘭書らんしょする諸説しょせつんで、その大体だいたいわきまえ、よってこのうつわにおける種々しゅじゅ機巧きこう発明はつめいしたり。

—  大槻おおつき玄沢げんたく厚生こうせい新編しんぺん

橋本はしもとたんにエレキテルの原理げんり解説かいせつしただけではなく、エレキテルやライデンびん使つかった種々しゅじゅ実験じっけんおこなった。これらの実験じっけんについて、『阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら』のなか解説かいせつおこなっている。たとえば、寺子屋てらこやあさひのぼりどう」にてひゃく余人よにん子供こども感電かんでん実験じっけんひゃくにんおどし)をおこなったとしるしている[21]

ひゃくにんおびえ」とかれたライデンびん

また『阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら』には、ベンジャミン・フランクリンたこをつかったかみなり実験じっけんのごとく、泉州せんしゅう佐野さの門人もんじんなか久太きゅうたたかじゅうきゅうあいだやく40m)のまつ使つかい「てん実験じっけん」をおこなったことがしるされている[22][注釈ちゅうしゃく 5]。このほかにも『阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら』には、エレキテルで焼酎しょうちゅうをつける実験じっけん、エレキテルでカエル・ネズミ・スズメなどを気絶きぜつさせる実験じっけん、エレキテルの静電気せいでんきかみ人形にんぎょうおどらせる実験じっけんなどもかれている[22]

阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら』には、松原まつばらみぎなかつくったエレキテルと、それを参考さんこう橋本はしもとつくったとおもわれるエレキテルの説明せつめいかれている[23]。これらのエレキテルは平賀ひらが源内げんないのエレキテルとことなり、てつ衝(鉄砲てっぽうふるつつ)に帯電たいでんさせる方法ほうほうっている[23]

ライデンびん静電気せいでんきめる実験じっけんについても記述きじゅつがある。ライデンびんとして、いちしょうごうはいガラス瓶がらすびんもちいたと記録きろくしている[24]構造こうぞうとしては、先端せんたん真鍮しんちゅうたまをつけた真鍮しんちゅうぼうを、ガラス瓶がらすびんのなかにみ、ガラスとのあいだ松脂まつやにふうじ、びん外側そとがわ金箔きんぱくって、びんなか金属きんぞくけずくずすいなどをいれたものである[24]

このような実験じっけんあつめて執筆しっぴつされた『阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら上下じょうげかんは、伏屋ふしや狄の序文じょぶん日付ひづけから文化ぶんか8ねん(1811ねん)のあきには完成かんせいしていたはずであるが、文化ぶんか10ねん(1813ねん)2がつ出版しゅっぱんねがいされている[22]。しかし、同年どうねん8がつ却下きゃっかされ、刊行かんこういたらなかった[22]

西洋せいよう医事いじ集成しゅうせい翻訳ほんやく[編集へんしゅう]

橋本はしもと蘭学らんがくしょ翻訳ほんやく集大成しゅうたいせいとして西洋せいよう医事いじ集成しゅうせい翻訳ほんやくかった[25]本書ほんしょ当初とうしょ本草ほんぞう24かん薬方やくほう5かん製薬せいやく6かんびょう15かん合計ごうけい50かんとする予定よていであった[2]推敲すいこうすえ本草ほんぞうへんびょうへんへんとしてわせて35かんまでとし、さら序文じょぶんそう目次もくじなどをせたくびさつ1かんくわえた[2]文化ぶんか11ねん(1814ねん)、『西洋せいよう医事いじ集成しゅうせいたからはこ』の出版しゅっぱんねがて、文化ぶんか13ねん(1816ねん)に許可きょかくだり、文政ぶんせい4ねんまで出版しゅっぱんつづけられた[2]

その加筆かひつ訂正ていせいつづけられたが、全巻ぜんかん出版しゅっぱんをみずに、橋本はしもと大阪おおさかった[2]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

文政ぶんせい年間ねんかん後半こうはん橋本はしもと宗吉そうきち行動こうどうはよくわかっていない[26]文政ぶんせい10ねん(1827ねん)、橋本はしもとは、広島ひろしま竹原たけはら一時いちじ隠遁いんとんしといわれる[27]。ここには、橋本はしもと弟子でしむすめ婿むこ医者いしゃをしており、これにたよったものとかんがえられる[27]

隠遁いんとん要因よういん明確めいかくではない[28]有力ゆうりょくせつとして、文政ぶんせい10ねん大阪おおさか切支丹きりしたんばば逮捕たいほ事件じけんき、橋本はしもとじゅく出入でいりのあった藤田ふじたあらわぞうがこれに連座れんざして捕縛ほばくされ[28]、これに危険きけんかんじたからというものがある[28]。また、翌年よくねんこったシーボルト事件じけんさっしたためというせつもある[28]橋本はしもと天保てんぽう元年がんねん(1829ねんごろ大阪おおさかもどった[27]。このため、事件じけんへの連座れんざおそれたというよりたんに、むすめ夫婦ふうふせにおうじただけというせつ有力ゆうりょくである[28][注釈ちゅうしゃく 6]

死去しきょ[編集へんしゅう]

山本やまもと積善せきぜんの『浪速なにわ人傑じんけつだん』によれば、天保てんぽう7ねん(1836ねん)に死去しきょ[29]げん大阪おおさか中央ちゅうおう上本うえほんまち念仏ねんぶつてらにて葬儀そうぎおこなわれた[30]念仏ねんぶつてら過去かこちょうにはどうてら埋葬まいそうとあるが、墓石はかいしてられず、天満てんままちりゅううみてらにあったともつたわる[30][注釈ちゅうしゃく 7]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

電気でんきがく[編集へんしゅう]

泉州せんしゅう熊取くまとりたににて、てん図説ずせつ」とだいされた挿絵さしえ

エレキテルもちいて電気でんき実験じっけんをした人物じんぶつとして、平賀ひらが源内げんないられている[22]。これよりもまえにエレキテルや電気でんき紹介しょうかいした文献ぶんけんとして後藤ごとうなしはるの『紅毛こうもうばなし』や森中もりなかりょうの『紅毛こうもう雑話ざつわ』がある[22]。しかし、エレキテルをたんなる好奇こうき遊戯ゆうぎ対象たいしょうとして、あるいは医療いりょう用具ようぐとしてではなく、自然しぜん現象げんしょう実験じっけん観察かんさつ対象たいしょうとしてあつかったのは橋本はしもと最初さいしょであるとされる[31]橋本はしもと日本にっぽん電気でんきがくとされる所以ゆえんである[31]

この論拠ろんきょとして橋本はしもと宗吉そうきちはエレキテルの原理げんり説明せつめいしている[23]たとえば『阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら』のなかで「「ヱレキテル」は「ヱレクトリシテイト」とうんと倶に琥珀こはくちからうんことなりによりて我輩わがはいヱレキテルをたま力車りきしゃびヱレキテルのたまりょくぶ」と記述きじゅつしている[23]橋本はしもとのエレキテルを使つかった実験じっけん解説かいせつは、30項目こうもくおよぶが、治療ちりょう目的もくてき記述きじゅつは2であることから、橋本はしもとがエレキテルを自然しぜん科学かがく探求たんきゅうする道具どうぐとしてとらえていたと推察すいさつできる[32]

蘭学らんがくしゃとして[編集へんしゅう]

大阪おおさか医者いしゃ山木やまき積善せきぜん文政ぶんせい11ねん(1828ねん)に刊行かんこうした『海内かいだいはやしつたえ』は、おも京都きょうと大阪おおさか在住ざいじゅう医師いし名簿めいぼであるが、このなか橋本はしもと宗吉そうきちこうに「大坂おおさか西洋せいようがくそうよしヨリはじめマル」とかれている[17]

寛政かんせい10ねん(1799ねん)の11月26にちが、太陽暦たいようれきの1がつ1にちにあたり、大槻おおつき玄沢げんたく蘭学らんがくじゅくであるしばらんどうではこのを「オランダ正月しょうがつ」としょうして、いわうたげひらいた[33]。このときの座興ざきょうとして東西とうざい蘭学らんがくしゃ番付ばんづけがつくられた[33]。この番付ばんづけで、橋本はしもと西にし小結こむすびげられている[33]

一方いっぽう地理ちり知識ちしきについては、山村さんそんざいすけきびしく批判ひはんしている。『かつらん新訳しんやく地球ちきゅうぜん』について、にあたる大槻おおつき玄沢げんたくがこれを入手にゅうしゅ[34]大槻おおつき門弟もんてい山村さんそんざいすけ添削てんさく依頼いらいしたのであった[34]山村さんそんは、『ろくべんあやま』という小冊しょうさつしるし、「橋本はしもとなまハ、ケダシかずらん書物しょもつヲ読ミタルじんニハズトユ」、「コノ地図ちずじょうべんズルゴトクニおびただしシク臆説おくせつ杜撰ずさんヲナス」と痛烈つうれつ批判ひはんしている[34]

翻訳ほんやくしゃとして[編集へんしゅう]

橋本はしもとのオランダ単語たんご記憶きおくりょくについてはすでにべたような逸話いつわのこっている。また長崎ながさき通詞つうじであった、ならはやししげる兵衛ひょうえ江戸えどからのかえりに大阪おおさか宿泊しゅくはくしたさい門弟もんてい伏屋ふしや案内あんない橋本はしもと宗吉そうきちたずねてきた[35]ならはやししげる兵衛ひょうえしたいちさつ蘭書らんしょ橋本はしもとは「これをむこと流水りゅうすいのごとく、その解釈かいしゃくすることあたかも宿やどのもののごとし」という能力のうりょくをみせ、ならはやししげる兵衛ひょうえは「(通訳つうやくしゃとして)われら、これに衣食いしょくするものもかくのごとく敏捷びんしょうなるはまれなり、愧づべし愧づべし」とべたという[35]

西洋せいよう医事いじ集成しゅうせいたからはこ』の出版しゅっぱんにあたり、橋本はしもと序文じょぶんで「自分じぶん泰西たいせい医籍いせきこのみ、これまでにすうやくしたがみな小冊しょうさつ砕篇である。このたび入手にゅうしゅした医事いじたからはこはすこぶる大部たいぶのもので、これこそ後世こうせいつたえるにるものである。西洋せいようには元来がんらい、捌必きん鐸という言葉ことばがある。つまりたぬひと著書ちょしょのこして子孫しそんえることである。自分じぶん不幸ふこうにしていちなんもないので本書ほんしょやくして上梓じょうしえきしたい」という内容ないようのこしている[25]

医師いしとして[編集へんしゅう]

蘭学らんがくでは名声めいせいせたが、医師いしとして世間せけん評価ひょうかはあまりたかくなかったと推測すいそくされている[36]証拠しょうことして、あいだ重富しげとみ高橋たかはし至時よしときおくった手紙てがみでは、医師いしとしてうまくいっていないことがかれていた[36]。また江戸えど時代じだいつくられた大阪おおさか医師いし番付ばんづけでも、橋本はしもと評価ひょうかかならずしもたかいものではなかった[37]たとえば、文政ぶんせい3ねん医師いし番付ばんづけ橋本はしもとは、西前にしまえあたま13まい位置いちされていた[38]番付ばんづけでも前頭まえがしら中位ちゅうい橋本はしもとくものがほとんどであった[38]

いとかんどうからひがしやく1kmの場所ばしょ大坂おおさかどう吹屋ふきやがあった[39]。ここへ火傷かしょう治療ちりょうのために橋本はしもと宗吉そうきちが、文政ぶんせい3ねん天保てんぽう4ねん往診おうしんした記録きろく住友すみともの『年々ねんねん』にのこっている[39][注釈ちゅうしゃく 8]

墓石はかいし記念きねん[編集へんしゅう]

大正たいしょう15ねん(1925ねん)に、大阪おおさか電気でんき博覧はくらんかいひらかれるさいに、大阪おおさか有志ゆうしによって、橋本はしもと顕彰けんしょうするために墓石はかいし建立こんりゅうされた[30][44]
しゅんほまれ文雄ふみお天真てんしん居士こじ」との戒名かいみょうきざまれている[42]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

医学いがくしょ[編集へんしゅう]

  • らん内外ないがいさんほうかたてん
  • 西洋せいよう医事いじ集成しゅうせいたからはこ

地理ちりがく[編集へんしゅう]

  • かつらん新訳しんやく地球ちきゅうぜん

電気でんきがく[編集へんしゅう]

  • 阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら上下じょうげかん[注釈ちゅうしゃく 9]
  • 『エレキテルやくせつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 橋本はしもと江戸えど大槻おおつき玄沢げんたくへの入門にゅうもん時期じき諸説しょせつある[12]
  2. ^ わけをつければ「工芸こうげい自然しぜん学問がくもんについてのあたらしくて完全かんぜん事典じてん
  3. ^ 橋本はしもと宗吉そうきち前後ぜんごして、水戸みとはん家臣かしん高森たかもりかんこのみもエレキテルの製作せいさくおこなっている[20]
  4. ^ エレキテルのこと
  5. ^ この実験じっけんおこなったなか久太きゅうたは、重要じゅうよう文化財ぶんかざい中家ちゅうか住宅じゅうたく」として保存ほぞんされており、実験じっけんでしようされたとかんがえられるまつわっていた場所ばしょには石碑せきひてられた。
  6. ^ 大槻おおつき如電じょでんは、『洋学ようがく年表ねんぴょう文政ぶんせい12ねんのところに「橋本はしもと宗吉そうきち邪教じゃきょう連坐れんざシテころせサル」としるしている[29]
  7. ^ 大正たいしょう時代じだいごろに天満てんままちりゅううみてら墓標ぼひょうえたというはなしもある[30]
  8. ^ 橋本はしもとたいして住友すみとも謝礼しゃれいとして、薬代くすりだいきんひゃくじゅうさかな代金だいきんひゃく疋などをはらっている[40]
  9. ^ 菊池きくち俊彦としひこ『エレキテル全書ぜんしょ.阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら遠西とおにしじゅつかずらん』としてこぼしされたものが1978ねん出版しゅっぱんされている。底本ていほん常陸ひたち文庫ぶんこ蔵書ぞうしょほん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 143.
  2. ^ a b c d e 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 148.
  3. ^ 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 155.
  4. ^ 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 158.
  5. ^ a b c てきじゅくをめぐる人々ひとびと 1988, p. 159.
  6. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.59
  7. ^ 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 144.
  8. ^ a b c d e f 日本にっぽん科学かがく散歩さんぽ 1974, p. 26.
  9. ^ かずらん医書いしょ研究けんきゅう書誌しょし 1997, p. 1.
  10. ^ 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 146.
  11. ^ a b 日本にっぽん科学かがく散歩さんぽ 1974, p. 27.
  12. ^ 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 41.
  13. ^ 日本にっぽん科学かがく散歩さんぽ 1974, p. 28.
  14. ^ 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 54.
  15. ^ a b c d e 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 145.
  16. ^ a b てきじゅくをめぐる人々ひとびと 1988, p. 160.
  17. ^ a b 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 40.
  18. ^ a b エレキテルの魅力みりょく 2007, p. 82.
  19. ^ a b 近代きんだい日本にっぽんその科学かがく技術ぎじゅつ 1990, p. 71.
  20. ^ 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 147.
  21. ^ 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 151.
  22. ^ a b c d e f 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 57.
  23. ^ a b c d 調査ちょうさ研究けんきゅう論文ろんぶん 「ゑれきてる」考証こうしょう 2002, p. 39.
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  26. ^ 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 62.
  27. ^ a b c 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, pp. 148–149.
  28. ^ a b c d e 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, pp. 150–151.
  29. ^ a b 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 63.
  30. ^ a b c d 大阪おおさか文化ぶんか史論しろん 1979, p. 152.
  31. ^ a b 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 58.
  32. ^ 調査ちょうさ研究けんきゅう論文ろんぶん 「ゑれきてる」考証こうしょう 2002, p. 40.
  33. ^ a b c 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 48.
  34. ^ a b c 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, pp. 51–52.
  35. ^ a b 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, pp. 48–49.
  36. ^ a b 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 59.
  37. ^ 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 61.
  38. ^ a b 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, pp. 61–62.
  39. ^ a b 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 60.
  40. ^ 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, p. 69.
  41. ^ a b 日本にっぽん科学かがく散歩さんぽ 1974, p. 31.
  42. ^ a b c エレキテルの魅力みりょく 2007, p. 53.
  43. ^ a b 大坂おおさか蘭学らんがく史話しわ 1979, pp. 290–291.
  44. ^ 日本にっぽん科学かがく散歩さんぽ 1974, p. 30.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 橋本はしもと宗吉そうきち ちょ三崎みさき省三しょうぞう へんかずらんはじめせいヱレキテル究理きゅうりばら三崎みさき省三しょうぞう、1925ねんNCID BN14505292 
  • 明治めいじぜん日本にっぽん科学かがく刊行かんこうかい ちょ日本学士院にほんがくしいん へん明治めいじぜん日本にっぽん物理ぶつり化学かがく日本にっぽん学術がくじゅつ振興しんこうかい、1964ねんNCID BN04573547 
  • 大矢おおや真一しんいち日本にっぽん科学かがく散歩さんぽ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ自然しぜん選書せんしょ〉、1974ねんNCID BN02640960 
  • 橋本はしもと宗吉そうきち『エレキテル全書ぜんしょ阿蘭陀おらんだはじめせいエレキテル究理きゅうりばら遠西とおにしじゅつかずらん』 11かん恒和つねかず出版しゅっぱん江戸えど科学かがく古典こてん叢書そうしょ〉、1978ねんNCID BN01614375 
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  • 宮本みやもと又次またじ大阪おおさか文化ぶんか史論しろん文献ぶんけん出版しゅっぱん、1979ねんNCID BN00333778 
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  • 宮下みやした三郎さぶろうかずらん医書いしょ研究けんきゅう書誌しょし井上書店いのうえしょてん、1997ねんNCID BA33398165 
  • 若井わかい のぼる井上いのうえ 恵子けいこ調査ちょうさ研究けんきゅう論文ろんぶん 「ゑれきてる」考証こうしょう」『郵政ゆうせい研究所けんきゅうじょ月報げっぽうだい15かんだい4ごう総務そうむしょう郵政ゆうせい研究所けんきゅうじょ、2002ねん4がつ、32-45ぺーじNAID 40004971391 
  • あずまとおる『エレキテルの魅力みりょく : 理科りか教育きょういく科学かがく井上書店いのうえしょてん、2007ねんISBN 9784785387808 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]