たちばなやすし麻呂まろ

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たちばな やすし麻呂まろ
時代じだい 奈良なら時代じだい - 平安へいあん時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天平てんぺい11ねん739ねん
死没しぼつ ひろしひとし12ねん7がつ11にち821ねん8がつ12にち
官位かんい せいよんじょう播磨はりままもる
主君しゅくん 桓武かんむ天皇てんのう平城ひらじろ天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのう
氏族しぞく たちばな
父母ちちはは ちち橘奈良麻呂たちばなのならまろはは大原おおはら麻呂まろむすめ?・あきらおんな
兄弟きょうだい やす麻呂まろ島田しまだ麻呂まろ清野きよのせいとも入居にゅうきょ
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たちばな やすし麻呂まろ(たちばな の やすまろ)は、奈良なら時代じだいから平安へいあん時代じだい初期しょきにかけての貴族きぞく参議さんぎ橘奈良麻呂たちばなのならまろ長男ちょうなん官位かんいせいよんじょう播磨はりままもる

経歴けいれき[編集へんしゅう]

のべれき6ねん787ねんしたがえ雅楽ががくすけ叙任じょにんされる。その桓武かんむあさにおいて中務なかつかさしょう甲斐かいまもる少納言しょうなごん内蔵ないぞうあたま内外ないがいしょかん歴任れきにんする。のべれき24ねん805ねん正月しょうがつしたがえよんひだりちゅうべん叙任じょにんされるも、同年どうねん9がつにははやくも常陸ひたちまもるとして東国とうごく地方ちほうかんてんじるが、ははやまい理由りゆう備前びぜんもりいで播磨はりままもるつづけて転任てんにんした。

平城ひらじろあさ大同だいどう2ねん807ねん)に発生はっせいした伊予いよ親王しんのうへんにおいて、伊予いよ親王しんのう外戚がいせきであったことから連座れんざして官職かんしょく解任かいにんされ帰京ききょうする。

嵯峨さがちょうはいるとつみゆるされ、ひろしひとし元年がんねん810ねんしたがえよんじょうひろじん10ねん819ねんせいよんからせいよんじょう昇叙しょうじょされるなど順調じゅんちょう昇進しょうしんたしている。ひろじん12ねん821ねん)7がつ11にち卒去そっきょ享年きょうねん83。最終さいしゅう官位かんいくらいせいよんじょう

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

礼節れいせつをよくまもり、くわえて古事ふるごとあかるかった。かずおおくの官職かんしょく歴任れきにんしたが、清廉せいれん品行ひんこう方正ほうせいとの評判ひょうばんはなかった[1]

かんれき[編集へんしゅう]

ろく国史こくし』による。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんひろしじん12ねん7がつ11にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]