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歩兵ほへいだい8連隊れんたい

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歩兵ほへいだい8連隊れんたい
にち戦争せんそうでの歩兵ほへいだい8連隊れんたい
創設そうせつ 1874ねん5月
廃止はいし 1945ねん
所属しょぞく政体せいたい 大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
部隊ぶたい編制へんせい単位たんい 連隊れんたい
兵科へいか 歩兵ほへい
所在地しょざいち 大阪おおさか中央ちゅうおう法円坂ほうえんさか
編成へんせい 大阪おおさか
通称つうしょうごう/略称りゃくしょう よどみ4072
補充ほじゅう担任たんにん 大阪おおさか連隊れんたい
上級じょうきゅう単位たんい 大阪おおさか鎮台ちんだい - だい4師団しだん
最終さいしゅう位置いち タイ王国おうこく ラムパーンけん北方ほっぽう
おも戦歴せんれき はぎらん - 西南せいなん - にちしん - にち - だいいち世界せかい大戦たいせん - にちちゅう - だい世界せかい大戦たいせん
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歩兵ほへいだい8連隊れんたい(ほへいだいはちれんたい、歩兵ほへいだいはち聯隊れんたい)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん連隊れんたいのひとつ。

概要がいよう[編集へんしゅう]

大阪おおさか鎮台ちんだいだい4師団しだん中核ちゅうかく部隊ぶたいであった。明治めいじ陸軍りくぐん草創そうそうからある古参こさん歩兵ほへい連隊れんたいで、佐賀さがらんはぎらん西南せいなん戦争せんそうにち戦争せんそうだいいち上海しゃんはい事変じへんだい2バターン半島はんとう攻略こうりゃくせん参加さんかした。

流布るふされた里謡りよう[編集へんしゅう]

歩兵ほへいだい8連隊れんたいは「またもけたかはち連隊れんたい、それでは勲章くんしょうきゅう連隊れんたい京都きょうと歩兵ほへいだい9連隊れんたいと「くれんたい(もらえませんよ)」の語呂合ごろあわせ)」[1]という里謡りようと、口数くちかずおお弁舌べんぜつち、商人しょうにん気質きしつ損得そんとく勘定かんじょうさとく、かつはん権力けんりょくてきというステレオタイプかつ偏見へんけんじりの大阪おおさか商人しょうにん気質きしつのイメージとワンセットでかたられたことにより、「大阪おおさか兵隊へいたいよわい」という風説ふうせつまれた。しかし、実際じっさいだい8連隊れんたい特段とくだんいくさをしておらず、また背後はいごそびえる盃ケ岳さかずきがたけ多紀たき連山れんざん使つかったきびしい訓練くんれん演習えんしゅうで「丹波たんばおに」「山岳さんがくせん篠山しのやま連隊れんたい」とおそれられ、信頼しんらいされた篠山しのやま歩兵ほへいだい70連隊れんたい直系ちょっけい母体ぼたいだい8連隊れんたいないから要員よういん捻出ねんしゅつ編成へんせいされ篠山しのやま移駐いちゅうした連隊れんたい)にもなっており、けっしてよわかったわけではなく、大阪おおさか鎮台ちんだい時代じだい西南せいなんやく連隊れんたい従事じゅうじしたさいには明治天皇めいじてんのうより、「戦功せんこう嘉賞かしょう」の詔勅しょうちょく日本にっぽんぐん唯一ゆいいつたまわるという偉業いぎょうたっしている[2]太平洋戦争たいへいようせんそうどきバターン・コレヒドール攻略こうりゃくせんいてもだい8連隊れんたい奮戦ふんせん勝利しょうりしており、ぐん司令しれいかん本間ほんま雅晴まさはる中将ちゅうじょうから謝意しゃいべられている。

編成へんせい所在地しょざいち大阪おおさかではあるが、所属しょぞくする隊員たいいんには、奈良ならけんはじめとした近畿きんきかく府県ふけん徳島とくしまけんなど府県ふけん出身しゅっしんしゃ仕事しごと大阪おおさかて、大阪おおさか徴兵ちょうへい検査けんさけた大阪おおさか外出がいしゅつしゃふくまれていた。これは士官しかんにも該当がいとうすることであり[3]当然とうぜん連隊れんたいにもてはまることである。この里謡りようだい4師団しだん創設そうせつした当初とうしょからわれており、谷沢たにさわ永一えいいちは、徳富とくとみ蘇峰そほうが『近代きんだい日本にっぽん国民こくみん』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ西南せいなんやく』()、(ろく))で引用いんようしたのが決定けっていばん役割やくわりたしたと指摘してきしている[4]

日本にっぽんぐん解散かいさん平成へいせいになってからも上記じょうき里謡りようとなえる団体だんたい人物じんぶつこうたず、新聞しんぶんしゃ出版しゅっぱんしゃ知識ちしきじんにも散見さんけんされる。『大阪おおさかはち連隊れんたい-大阪おおさか師団しだんしょう』をしるした編集へんしゅうした中野なかのこうさくは、こん東光とうこう『こつまなんきん』、祖父江そふえ孝男たかお浅井あさい得一とくいち - 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ県民けんみんせい』、司馬しばりょう太郎たろう講談社こうだんしゃ昭和しょうわ59ねん10がつごう現代げんだい』における小沢おざわ昭一しょういち谷沢たにさわ永一えいいちイーデス・ハンソンとの鼎談ていだんげている[3]

谷沢たにさわ永一えいいちは、自身じしん連載れんさい中野なかの著書ちょしょげ、「この里謡りよう事実じじつとしての根拠こんきょ絶無ぜつむであるむねいま明白めいはくとなった」とし、自身じしんきびしくたたかれていると記述きじゅつしている[4]。しかし、「捏造ねつぞうされた架空かくう聖徳太子しょうとくたいし現今げんこんいたっても頑固がんこしんじているひとすくなくないのと同様どうよう、いったんった訛伝かでん修正しゅうせいするのをこのまず拒否きょひする」とも記述きじゅつし、「ほかならぬ大阪おおさかじんがこのような見下みくだになぜ抵抗ていこうせず、むしろ口々くちぐちにいいつたえた理由りゆう詮索せんさくすべきである。」と指摘してきし、ゴーストップ事件じけんせきはじめ主導しゅどうによる大阪城おおさかじょう再建さいけん移転いてんさせられただい4師団しだんたいし、「わたしども大阪おおさかじんはこのいちおう自虐じぎゃくてきまわしのかげかくれて、じつ陸軍りくぐんへの反感はんかん共有きょうゆうしたのである。」との自説じせつ開陳かいちんしている[4]

中野なかのは、自身じしん従軍じゅうぐんした伊藤いとう桂一けいいち兵隊へいたいたちの陸軍りくぐん』、角田つのだ房子ふさこ『いっさいゆめにござこう本田ほんだ雅晴まさはる中将ちゅうじょうでん)』にもこの里謡りようげられていると指摘してきしており、それらはせきみゆき輔が「現代げんだい研究けんきゅうかい」の『現代げんだい研究けんきゅう だいななしゅう』で発表はっぴょうした「日本一にっぽんいちよわかった師団しだん」と文章ぶんしょう引用いんようし、記述きじゅつ展開てんかいしている[3](「日本一にっぽんいちよわかった師団しだん」は、『大阪おおさかはち連隊れんたい-大阪おおさか師団しだんしょう』でげ、「虚言きょげん妄言ぼうげん、ひとりよがりの指摘してきする」、「エスカーレートした粉飾ふんしょく上塗うわぬりを指摘してきする」と断罪だんざいし、詳細しょうさい反論はんろんしている)。

伊藤いとう桂一けいいちは、文春ぶんしゅん新書しんしょわか世代せだいかたにちちゅう戦争せんそう』で、連隊れんたいにも県民けんみんせいがあったと指摘してきし、「大阪おおさか兵隊へいたい大阪おおさかじんらしく、確実かくじつけるとわかっているときは無理むりをせず、てる見込みこみがでてきたら反撃はんげきする。やはり合理ごうりてきというのか、あたまのいいたたかかたをしました。」、「関西かんさい部隊ぶたいには、なにがなんでもたたかって玉砕ぎょくさいする、とかんがえはないかもしれません。やむなく玉砕ぎょくさいすることはあったにしても。」との意見いけんかたっている[5]

石原いしはら慎太郎しんたろうは、「大阪おおさか歩兵ほへいだいはち連隊れんたいよわいので有名ゆうめいだったけれども(笑)」とかた[6]唐沢からさわ俊一しゅんいち木村きむら政雄まさおなどは、この里謡りよう事実じじつとの前提ぜんてい戦争せんそう徴兵ちょうへいせいについてかたっている[7][8]

自身じしんだい8連隊れんたい所属しょぞくしていたあずまいさおによれば、日本にっぽん滞在たいざいしていたイギリスじん学者がくしゃゴードン・スミスが、イギリスの『モーニング・クロニクル』に「大阪おおさかじん気質きしつ」との記事きじ寄稿きこうし、「大阪おおさか兵隊へいたい弱腰よわごしだとさげすまれていた」、それゆえ「大阪おおさかわか世代せだいはこのたびのロシアとのたたかいで汚名おめいをそそぎ、栄誉えいよなければと必死ひっし覚悟かくごをし、南山なんざんでのたたかにおいてすさまじい気力きりょく発揮はっきすることになった」との記述きじゅつ指摘してきし、この里謡りよう影響えいきょうつよかったと指摘してきしている[1]

大阪おおさかはち連隊れんたい-大阪おおさか師団しだんしょう』をしるした編集へんしゅうした中野なかのは、「しんない人々ひとびとによって、もない俗謡ぞくようぎぬかぶせられたまま、国難こくなんじゅんじられたはち出身しゅっしんしゃおよび、俗謡ぞくようのため迷惑めいわくこうむっておられる大阪おおさか出身しゅっしんしょ部隊ぶたい大阪おおさかじん冤罪えんざいは、だれうったえたらその潔白けっぱくみとめてくれるのでしょうか。純真じゅんしん素朴そぼく気持きもち同胞どうほう身代みがわりとなってんでゆかれたいくまん人々ひとびとのお気持きもちをさっするとき、万感ばんかんむねせまこたれぬものがあって、このしょのこしました」とあとがきにしるしている。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

歴代れきだい連隊れんたいちょう[編集へんしゅう]

歴代れきだい連隊れんたいちょう
特記とっきないかぎ陸軍りくぐん大佐たいさ
だい 氏名しめい 在任ざいにん期間きかん 備考びこう
1 河村かわむらひろしあずか 1874.5.14 - 中佐ちゅうさ
2 厚東あつひがし武直たけなお 1874.12.27 - 中佐ちゅうさ
3 川上かわかみ操六そうろく 1879.5.11 - 1881.1.22 中佐ちゅうさ
4 仲木なかぎうえ 1881.2.23 - 1882.3.8 中佐ちゅうさ
5 青山あおやまあきら 1882.3.10 - 中佐ちゅうさ
6 小川おがわ又次またじ 1884.10.28 -
7 宮城みやぎ彦八 1885.5.26 - 中佐ちゅうさ
8 せらとも好成よしなり 1886.5.27 - 1890.6.13 中佐ちゅうさ、1890.6.13大佐たいさ
9 小林こばやしげん 1890.6.13 - 中佐ちゅうさ
10 前田まえだたかしれい 1891.4.11 - 1896.9.25 中佐ちゅうさ、1894.12.大佐たいさ
11 小畑おばたしげる 1896.9.25 - 1897.11.15 中佐ちゅうさ
12 森脇もりわきひさし 1897.11.15 - 1901.6.1 中佐ちゅうさ、1899.12.大佐たいさ
13 中原なかはらわたる 1901.6.1 - 1903.12.9 中佐ちゅうさ、1903.4.大佐たいさ
14 肥後ひごただし 1903.12.9 - 1904.1.22 中佐ちゅうさ
15 能美のみしげるいち 1904.1.22 - 中佐ちゅうさ、1905.3.大佐たいさ
16 高島たかしまともたけ 1908.12.21 - 1909.5.20
17 近藤こんどうまつよんろう 1909.5.20 - 1910.11.30
18 向井むかいひとし 1910.11.30 - 1913.8.22
19 種子しゅしでん秀実ひでみ 1913.8.22 - 1915.2.15
20 野方のかた芳太郎よしたろう 1915.2.15 - 1916.11.15
21 佐藤さとう武文たけふみ 1916.11.15 -
22 山本やまもと清次せいじ 1921.6.28 -
23 はやし彦一ひこいち 1923.8.6 -
24 香月かつき清司せいじ 1925.5.1 -
25 細木さいきけん 1926.3.2 -
26 山田やまだ健三けんぞう 1927.7.26 -
27 溝口みぞぐちきよし 1929.8.1 -
28 松田まつだ四郎しろう 1932.4.11 -
29 平林ひらばやしもりじん 1934.3.5 -
30 秋山あきやま義隆よしたか 1936.3.7 -
31 おもえりょう 1937.8.2 -
32 あんず賢一けんいち 1938.12.10 -
33 奥津おくつあきら三郎さぶろう 1940.7.1 -
34 森田もりた春次はるじ 1941.7.5 -
すえ 藤森ふじもりしげる 1944.11.19 - 中佐ちゅうさ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 自身じしんが8連隊れんたい所属しょぞくしていたあずまいさおは、9連隊れんたいつづき「てき台場だいばじゅう(と)連隊れんたい兵庫ひょうごけん姫路ひめじ歩兵ほへいだい10連隊れんたい)」と里謡りよう存在そんざいしるしている。日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 2007ねん8がつ23にち朝刊ちょうかん あずまいさおじつってたはち連隊れんたい』。
  2. ^ 歩兵ほへいだいはち聯隊れんたい 1982ねん8がつ15にち収録しゅうろくもとだいはち連隊れんたい所属しょぞく軍人ぐんじんとう関係かんけいしゃによって刊行かんこうされた。またとうではそうぺーじ630ページのうち5ぶんの1をいて、この里謡りようたいする反論はんろんおこなっている。
  3. ^ a b c 中野なかのこうさく大阪おおさかはち連隊れんたい-大阪おおさか師団しだんしょう
  4. ^ a b c PHP歴史れきし街道かいどう』2006ねん7がつごう谷沢たにさわ永一えいいち日本にっぽんヤミなべ」 - またたもけたかはち聯隊れんたい
  5. ^ 文春ぶんしゅん新書しんしょわか世代せだいかたにちちゅう戦争せんそう』p.55
  6. ^ 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』2010ねん9がつごう戦場せんじょうちちからとどいた75つう手紙てがみ 石原いしはら慎太郎しんたろう典子のりこ」 p.220
  7. ^ 気違きちがいがわかるおとこネスカフェゴールドブレンド - 唐沢からさわ俊一しゅんいちホームページ 日記にっき 2004ねん 02がつ 02にち(月曜日げつようび)
  8. ^ このひときたいマガジン9
  9. ^ 小学校しょうがっこう倒壊とうかいあいつぎ学童がくどう多数たすう死傷ししょう大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ9ねん9がつ21にち号外ごうがい(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp228 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねん
  • 中野なかのこうさくへん歩兵ほへいだいはち連隊れんたい』、1983ねん
  • 中野なかのこうさく大阪おおさかはち連隊れんたい - 大阪おおさか師団しだんしょう』、1985ねん
  • 外山とやまみさお森松もりまつ俊夫としお編著へんちょ帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1987ねん
  • 日本にっぽん陸軍りくぐん連隊れんたい総覧そうらん 歩兵ほへいへん(別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん)』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん
  • はら つよし明治めいじ国土こくど防衛ぼうえい』(にしきせいしゃ、2002ねん
  • はたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん
  • あずまいさおじつってたはち連隊れんたい』(日本経済新聞にほんけいざいしんぶん、2007ねん8がつ23にち
  • 官報かんぽう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]