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浜田はまだ弥兵衛やへえ

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浜田はまだ 弥兵衛やへえ(はまだ やひょうえ、きゅう字体じたい濱田はまだ彌兵衞やへえきゅう仮名遣かなづかい:はまだ やひゃうゑ、なま没年ぼつねんしょう)は、江戸えど時代じだい初期しょき朱印船しゅいんせん船長せんちょう長崎ながさきひと1627ねんこったタイオワン事件じけん(ノイツ事件じけん)の実行じっこうしゃ1915ねん大正たいしょう4ねん)、おくしたがえ[1]

タイオワン事件じけん

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寛永かんえいころまでに日本にっぽんでは朱印船しゅいんせん貿易ぼうえきさかんになっていたが、その交易こうえきさきのひとつであかりこくとの非公式ひこうしき貿易ぼうえきおこなさい中継ちゅうけい基地きちてき重要じゅうようせいがあったのが高砂たかさご台湾たいわんだった。そこにオランダひがしインド会社かいしゃ進出しんしゅつしてこれを占領せんりょう(1624ねん)、ゼーランディアじょうてこのにおける交易こうえきには一律いちりつ10%の関税かんぜいをかけはじめた。

寛永かんえい4ねん(1627ねん)、長崎ながさき貿易ぼうえきしょう末次すえつぐ平蔵へいぞう朱印船しゅいんせんふね船長せんちょうだった弥兵衛やへえは、幕府ばくふ後援こうえんをうけて、オランダ総督そうとくピーテル・ノイツ人質ひとじちにし、オランダに関税かんぜい撤回てっかい要求ようきゅう。オランダはこれをのみ、高砂たかさご自由じゆう貿易ぼうえきにすることに成功せいこうした。

子孫しそん

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末次すえつぐが4だい末次すえつぐしげるあさ断絶だんぜつすると、浜田はまだ大村おおむらはんつかえた。子孫しそん浜田はまだ謹吾きんごは、15さい鼓手こしゅとして戊辰戦争ぼしんせんそう出征しゅっせいし、角館かくのだて付近ふきん戦死せんしした。現在げんざい角館かくのだて銅像どうぞうっている。

石碑せきひ

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日本にっぽん統治とうち時代じだい台湾たいわんには、弥兵衛やへえ事跡じせき記念きねんして、ゼーランディアじょうに「おくしたがえ五位濱田彌兵衛武勇之趾」〔ママ〕とかれたいしぶみてられた。戦後せんご安平あびら堡」とえられた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.37

参考さんこう出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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