こげやしなえただし

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こげ やしなえただし(しよう ようちよく、1238ねん - 1310ねん)は、だいもとウルスつかえた漢人かんど官僚かんりょう一人ひとり

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

こげやしなえじきはやくからざいある人物じんぶつとしてられており、いたりもと18ねん1281ねん)にはてんみずかんにんじられた。その推薦すいせんするものがあってクビライされ、そのとき応対おうたいすぐれていたためてんみずしょうかん任命にんめいされた。いたりもと24ねん1287ねん)にナヤンのらん勃発ぼっぱつすると、みずかひきいる叛乱はんらん鎮圧ちんあつぐん従軍じゅうぐんしている[1]いたりもと28ねん1291ねん)には邸宅ていたく下賜かしされ、以後いごのそばちかくにつかえて中国ちゅうごく古代こだい帝王ていおう治世ちせい講義こうぎしたという[2]

くずれじてなりむねテムル即位そくいしたのち大徳だいとく元年がんねん1297ねん)になりむね柳林やなぎばやし滞在たいざいしていたときこげやしなえじきは『どおりかん』を進講しんこうするようめいじられている。このときこげやしなえじきさけおよび鈔17,500かん下賜かしされ、大徳だいとく2ねん1298ねん)にもかねたいぞうしゃく下賜かしされている。大徳だいとく3ねん1299ねん)にしゅうけん侍講じこう学士がくし地位ちいうつり、大徳だいとく7ねん1303ねん)には宮中きゅうちゅう太子たいしデイシュつかえるようめいじられた。大徳だいとく8ねん1304ねん)には南海なんかいまつり、大徳だいとく9ねん1305ねん)にはしゅうけん学士がくし大徳だいとく11ねん1307ねん)には太子たいしさとしとく歴任れきにんした。至大しだい元年がんねん1308ねん)にはしゅうけん大学だいがくにんじられたが、老齢ろうれい理由りゆう帰郷ききょうしそのままくなった。息子むすこには興国こうこくそうかん判官ほうがんになったこげとくかたがいる[3]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉野よしの2008,25ぺーじ
  2. ^ もとまき164列伝れつでん51こげやしなえ直伝じきでん,「こげやしなえちょくとがめあずまあきらどう邑人。夙以ざいしょういたりもとじゅうはちねんあらためたからろうためてんみずかんおもえとくいち儒者じゅしゃきょ近臣きんしんゆう以養ちょくこもしゃみかどそくいのち召見、じき対称たいしょうむね、以真じょう儒学じゅがく教授きょうじゅちょうはいてんみずしょうかんじゅうよんねんしたがえせい乃顔。じゅうはちねんたまものたくいちにゅうさむらい帷幄いあくひねせついにしえさき帝王ていおう政治せいじみかど聴之、まい忘倦。嘗語及漢だかみかどおこりがわほろ、誦所旧聞きゅうぶんやしなえちょく従容しょうよう論辨ろんべんみかどそくひらきおさめゆかりすすきだかみかど
  3. ^ もとまき164列伝れつでん51こげやしなえ直伝じきでん,「大徳だいとく元年がんねんなりそうみゆき柳林やなぎばやしいのちやしなえちょく進講しんこうどおりかんよしちんただし諫之ごとみことのりたまものしゅ及鈔まんななせんひゃくかんねん賜金しきんたいぞうしゃくさんねん、遷集けん侍講じこう学士がくしたまものどおりさいたいななねんみことのりでん太子たいし於宮ちゅうけい沃誠いたりみかど聞之、だいえつはちねんだいまつ南海なんかいきゅうねんすすむしゅうけん学士がくしじゅういちねん、陞太子たいしさとしとく至大しだい元年がんねん、授集けんだい学士がくし謀議ぼうぎ大政たいせい悉与焉。つげろう而卒、おくとく大夫たいふ河南かなんとうしょゆき中書ちゅうしょしょうみぎすすむおくりなぶんやすしとくかた、以廕ため興国こうこくそうかん判官ほうがん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • もとまき164列伝れつでん51こげやしなえ直伝じきでん
  • 新元しんもとまき191列伝れつでん88こげやしなえ直伝じきでん
  • 吉野よしの正史せいし「ナヤンのらんにおける元朝がんちょうぐん陣容じんよう」『早稲田大学わせだだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう紀要きようだい4分冊ぶんさつ、2008ねん