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おうだい

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おうだい
最新さいしんささえ要人ようじんでん』(1941ねん)
プロフィール
出生しゅっしょう 1893ねん3月5にち
きよしひかりいとぐち19ねん正月しょうがつ17にち
死去しきょ 1946ねんみんこく35ねん5月17にち
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
出身しゅっしん 清の旗 きよし湖南こなんしょうちょうすな醴陵けん
職業しょくぎょう 政治せいじ外交がいこうかん歴史れきし学者がくしゃ
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ おうだい
簡体字かんたいじ おうだい
拼音 Wáng Dàzhēn
ラテン Wang Ta-chen
和名わみょう表記ひょうき おう だいてい/おうたいてい
発音はつおん転記てんき ワン タージェン
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おう だい(おう だいてい/おう たいてい)は、中華民国ちゅうかみんこく外交がいこうかん政治せいじ歴史れきし学者がくしゃ芃生[1]ごう曰叟日本にっぽん留学りゅうがく経験けいけん外交がいこう専門せんもんとして、とく国民こくみん政府せいふ活動かつどう顕著けんちょ人物じんぶつである。

事績じせき[編集へんしゅう]

からし革命かくめいからきた直前ちょくぜんまで[編集へんしゅう]

高等こうとう小学しょうがく磁業がくどうて、陸軍りくぐん小学しょうがく入学にゅうがくする。1909ねんせんみつる元年がんねんあき中国ちゅうごく同盟どうめいかい加入かにゅうした。1911ねんせんすべ3ねん)9がつ武漢ぶかん陸軍りくぐん学校がっこう進学しんがくする。翌月よくげつたけあきらおこりよしからし革命かくめい)が勃発ぼっぱつすると、きょう配下はいか革命かくめいとしてたたかう。1912ねんみんこく元年がんねん)2がつ南京なんきんおもむき、軍需ぐんじゅ学校がっこう入学にゅうがくする。その、いったん湖南こなんもどり、湘軍(湖南こなみぐん)のほどせん配下はいかとなった。[2][3][4]

1916ねんみんこく5ねん)、おうだい楨は日本にっぽん留学りゅうがくし、陸軍りくぐん経理けいり学校がっこう高等こうとうまなんでいる。1918ねんみんこく7ねん)、シベリア出兵しゅっぺいさいして、おうもこれに随従ずいじゅうしてシベリアとそとモンゴル現地げんち調査ちょうさおこなった。翌年よくねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく経済学部けいざいがくぶ入学にゅうがく学習がくしゅうしている。1921ねんみんこく10ねん)、アメリカにおもむき、ワシントン会議かいぎ中国ちゅうごく代表だいひょうだん咨議をつとめる。翌年よくねん帰国きこくし、山東さんとう問題もんだい交渉こうしょう(「魯案」)の担当たんとうしゃ1人ひとりとなった。1924ねんみんこく13ねんはじめに山東さんとうしょう統計とうけい講習こうしゅうしょ所長しょちょうにんぜられ、翌年よくねんふたた日本にっぽん視察しさつおもむいている。[2][3][4]

国民こくみん政府せいふでの活動かつどう[編集へんしゅう]

1926ねんみんこく15ねん)に帰国きこくし、国民こくみん革命かくめいぐんきた参加さんかする。湖南こなんとうせいさとしひきいる国民こくみん革命かくめいぐんだい8ぐん編入へんにゅうされ、だい8ぐんだい2参謀さんぼうだい35ぐん参謀さんぼうちょう安徽あんきしょう軍事ぐんじちょうちょう歴任れきにんした。やすしかん分裂ぶんれつ蔣介せきしたてんじ、国民こくみん革命かくめいぐんそう司令しれい参議さんぎにんぜられている。1928ねんみんこく17ねん)5がつ3にちすみみなみ事件じけん勃発ぼっぱつすると、ちゅうにち特派とくはいんにんぜられ、日本にっぽんおもむ交渉こうしょうたった。帰国きこく外交がいこう条約じょうやく委員いいんかい顧問こもんにんぜられている。[2][3][4]

1931ねんみんこく20ねん)、満州まんしゅう事変じへんきゅういちはち事変じへん)が勃発ぼっぱつすると、東北とうほく外交がいこう研究けんきゅう委員いいんかい宣伝せんでん主任しゅにんにんぜられ、さらに国際こくさい連盟れんめい調査ちょうさだん中国ちゅうごく代表だいひょうしょ専門せんもん委員いいん兼任けんにんしてジュネーヴ派遣はけんされた。1935ねんみんこく24ねん)、ちゅうトルコ公使館こうしかん参事さんじにんぜられ、翌年よくねんちゅうにち大使館たいしかん参事さんじてんじている。1937ねんみんこく26ねん)5がつ軍事ぐんじ委員いいんかい国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょ主宰しゅさいした。[2][3][4]

同年どうねん8がつだい2上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつすると、おうだい楨はビルマ(ミャンマー)、ベトナムおもむき、滇緬おおやけ開設かいせつしも準備じゅんび奔走ほんそうした。[5]1945ねんみんこく34ねん)、中国ちゅうごく国民党こくみんとうだい6中央ちゅうおう執行しっこう委員いいん候補こうほ選出せんしゅつされている。1946ねんみんこく35ねん)5がつ17にち病没びょうぼつ享年きょうねん54(まん53さい)。なおおうだい楨は歴史れきし学者がくしゃとしても、日本にっぽん古代こだい匈奴きょうどかんする著作ちょさくのこしている。[2][6][4]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 中日ちゅうにち關係かんけい科學かがく研究けんきゅう
  • 臺灣たいわん交涉こうしょうぞう秘錄ひろく
  • 歌曲かきょく源流げんりゅうこう
  • 孤軍こぐん舌戰ぜっせん三島みしま紀要きよう
  • ずいからそうあきら古樂こがく流入りゅうにゅうあさ迭存ろく
  • そとこうむ見聞けんぶん
  • 日本にっぽん古史こしべんしょう
  • 日本にっぽん古史こし偽造ぎぞうあずか山海さんかいけい
  • 匈奴きょうど史上しじょう及突厥史上しじょう譯語やくご語源ごげん
  • 匈奴きょうどしん研究けんきゅう

ちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 東亜とうあ問題もんだい調査ちょうさかいへん(1941)、18ぺーじによると、満州まんしゅうこく同姓どうせい同名どうめい別人べつじんあらわれたために、そのころからて、おおやけ使用しようするようになったという。なおじょあるじへん(2007)、87ぺーじは、「おう芃生」の項目こうもく使用しようしている
  2. ^ a b c d e じょあるじへん(2007)、87ぺーじ
  3. ^ a b c d りゅうこくめいぬしへん(2005)、119ぺーじ
  4. ^ a b c d e 東亜とうあ問題もんだい調査ちょうさかいへん(1941)、18ぺーじ
  5. ^ りゅうこくめいぬしへん(2005)、119-120ぺーじ。ただし同書どうしょじょあるじへん(2007)、87ぺーじは、このときおうだい楨が交通こうつう常務じょうむ次長じちょうにんぜられたと記載きさいしているが、りゅう寿ひさしりんほかへん(1995)、586ぺーじにはこの人事じんじにつき記載きさい見当みあたらない。1937ねん8がつ20日はつか交通こうつう常務じょうむ次長じちょう任命にんめいされた人物じんぶつつくるまこととなっている。一方いっぽう東亜とうあ問題もんだい調査ちょうさかいへん(1941)、18ぺーじは、なにかぎ内政ないせい部長ぶちょうにんぜられたさいに(1937ねん11月20にちおう内政ないせい次長じちょうにんぜられたとしているが、りゅう寿ひさしりんほかへん(1995)、513ぺーじにはこの人事じんじについても記載きさい見当みあたらない。次長じちょうには政務せいむ次長じちょう常務じょうむ次長じちょうの2種類しゅるいがあるが、内政ないせい政務せいむ次長じちょうなん就任しゅうにんほどてんかたという人物じんぶつ暫時ざんじつとめ、同年どうねん12がつしのげあきらという人物じんぶつ就任しゅうにんしている(1939ねん6がつなん部長ぶちょう退任たいにん同時どうじ退任たいにん)。一方いっぽうどう常務じょうむ次長じちょうちょうみちはん当時とうじつとめており、よく1938ねん1がつちょう退任たいにんしたのちは、なに部長ぶちょう退任たいにんする時期じきまでりく後任こうにんとなっている。
  6. ^ りゅうこくめいぬしへん(2005)、119-120ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • じょともはるぬしへんみんこく人物じんぶつだい辞典じてん ぞうていばん河北かわきた人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2007ねんISBN 978-7-202-03014-1 
  • りゅうこくめいぬしへん中国ちゅうごく国民党こくみんとうひゃくねん人物じんぶつ全書ぜんしょ団結だんけつ出版しゅっぱんしゃ、2005ねんISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜とうあ問題もんだい調査ちょうさかい最新さいしんささえよう人伝ひとづて朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1941ねん 
  • りゅう寿ひさしりんほかへんみんこくしょくかん年表ねんぴょう中華ちゅうかしょきょく、1995ねんISBN 7-101-01320-1