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田代たしろ政典まさのり

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田代たしろ 政典まさのり
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 天明てんめい2ねん1782ねん
死没しぼつ 天保てんぽう12ねん2がつ10日とおか1841ねん4がつ1にち
改名かいめい れい)、政典まさのりあつしのきごう)、
別名べつめい あつ次郎じろう幼名ようみょう)、ぜんみぎ衛門えもん忠左衛門ちゅうざえもん通称つうしょう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 相良さがらよりゆきとくよりゆきこれ長福ながふく
はん 人吉ひとよしはん
氏族しぞく 田代たしろ
父母ちちはは ちち田代たしろまさしじょう
兄弟きょうだい 政典まさのり西にしはじめきょうせい
於帛(那須なす六郎ろくろう左衛門さえもんしつ)、
於辰(恒松つねまつきょうたいらしつ)、おんな早世そうせい)、せい
於豊、於梅(雨森あめのもり彌太郎やたろうしつ
養子ようしせい
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田代たしろ 政典まさのり(たしろ まさのり)は、江戸えど時代じだい後期こうき人吉ひとよしはん藩士はんし

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

政典まさのりちちせいじょう共々ともども細井ほそいひらしゅうもと学問がくもんまなび、人吉ひとよし帰郷ききょうするといえじゅくひらくとともに、勘定かんじょう奉行ぶぎょうぐん奉行ぶぎょうつとめる。民政みんせいにもつうじ、槍術そうじゅつにもけていた。

そのころ人吉ひとよしはんは、たびたびの大風おおかぜ洪水こうずい旱魃かんばつむしいれなどにより、田畑たはた民家みんかきょうしろ石垣いしがきなどがたびたび被害ひがい見舞みまわれ、はん財政ざいせい窮乏きゅうぼうしていた。はんは2せんぬきえるぎんかかえており、上下じょうげわず倹約けんやくいられ、またさむらい商家しょうかたいするぎんおおく、知行ちぎょう返上へんじょうするものすくなくない状況じょうきょうであった。文化ぶんか15ねん1818ねん)1がつ政典まさのり家老がろう菱刈ひしかりてんぜん窮乏きゅうぼう打開だかいあんしるした建白けんぱくしょ提出ていしゅつ、それがみとめられて文政ぶんせい4ねん1821ねん)12月24にち家老がろうしょくめいぜられた。

政典まさのり文政ぶんせい5ねん1822ねん)に原野げんや開拓かいたく実施じっし(ただし予定よていの3ヶ所かしょともに井戸いどりの最中さいちゅう大石おおいしたり、この政策せいさく失敗しっぱいしている)、同年どうねん砂糖さとう精製せいせいほう伝授でんじゅうえ奨励しょうれいうるし栽培さいばい推進すいしんさせ、飢饉ききん対策たいさくかこえまいしお算定さんていいね竿ざおしへの改良かいりょう旱魃かんばつ対策たいさくわかなえ用意よういなどをおこなった。天保てんぽう8ねん1837ねん)には製鉄せいてつ事業じぎょう計画けいかく発案はつあん天保てんぽう11ねん1840ねん)には人参にんじん朝鮮人参ちょうせんにんじんか?)の試験しけん栽培さいばい実施じっしし、成功せいこうさせている。

砂糖さとう精製せいせいほう伝授でんじゅ人参にんじん試験しけん栽培さいばい一部いちぶ商人しょうにんらのみでおこなわれ、独占どくせん状態じょうたいとなったことから、農民のうみんらの不興ふきょううこととなった。また、政典まさのり豊後ぶんごこくよりたけ山師やまし椎茸しいたけ栽培さいばいすうじゅうにんまねき、はん所有しょゆう山林さんりんすうヶ所かしょ椎茸しいたけ製造せいぞう場所ばしょしつらえた。その一方いっぽうやまはい葛根かずらねなどをっていた農民のうみんらは、製造せいぞう場所ばしょもうけられたやまへのりをきびしくとがめられるようになる。これが農民のうみん不平ふへいあおった。

当時とうじはまた、領内りょうないさむらい文武ぶんぶおこたり、りょうりょうにふける傾向けいこうにあったため、30さい以下いかものはこれを厳禁げんきんとする一方いっぽう士分しぶんらへ内職ないしょくすすめ(政典まさのりみずかかさりの内職ないしょくおこなっている)、帰農きのうすすめるなどした。しかしこれが、領内りょうないさむらいとく門葉もんよう)の反感はんかんまね結果けっかとなった。

領内りょうない以後いごわらず暴風雨ぼうふうう見舞みまわれ、田畑たはたれて不作ふさくとなった。その一方いっぽう風雨ふうう椎茸しいたけ栽培さいばいには好都合こうつごうであり、これを長崎ながさき輸出ゆしゅつしてはんおおいに利潤りじゅんげた。そのことから領民りょうみんあいだに、降雨こううてんいのっているのではないか、べい大豆だいずせい椎茸しいたけ苗木なえぎうつしているのではないか、などの風聞ふうぶんはじめる。さらに政典まさのりが「飢饉ききんさいあらぬかせんじて、そのしるめば、いちにちにちいのちながらえられる」とべたことを、農民のうみんらは「百姓ひゃくしょうどもはあらぬかえ」とべたとちがえた。それらを門葉もんようである相良さがらひだりなかよりゆきただしにつけこまれ、天保てんぽう12ねん(1841ねん)2がつ9にちから13にちまでつづく「たけやま騒動そうどう」とばれる百姓ひゃくしょう一揆いっき煽動せんどうされることとなった。一揆いっきしゅたけやまこわし、さらに鉄砲てっぽうはなって鯨波げいはげると、人吉ひとよしまちはいって商人しょうにんたくこわし、町人ちょうにんいちにん殺害さつがいしている。はんは、よりゆきじきつうじてされた一揆いっきがわ要求ようきゅうれることで、一揆いっき終息しゅうそくさせた。

政典まさのり騒動そうどう最中さいちゅうである2がつ10日とおかに、みずかめをって自害じがいした。だが、養嗣子ようししとなったおとうとせい鬴以子孫しそんは、以後いご家老がろうとしてはんより重用じゅうようされた。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 人吉ひとよし だいいちかん人吉ひとよしへんさん協議きょうぎかい